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アニメ『義妹生活』 原作者・三河ごーすと先生の解説まとめ

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【7話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』7話、解説・感想(※長文です)】
7話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(7話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)
尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。
私の解釈が絶対の正解というわけではないので、皆さまも自分なりにこのアニメ作品から受け取ったものを素直に受け取って独自に解釈してもらえればと思います。

では、始めます。

・沙季がなぜ現代文が苦手なのか?(日記パートでの答え)
沙季が現代文が苦手な本当の理由が日記パートで理解できるようになっています。
表面的な理由として、沙季が悠太に対して述べた理由は「登場人物の気持ちがわからない」でしたが、更にもう一歩先に踏み込んで、沙季の人間性が垣間見えます。
沙季は日記の中で「人の心なんて理解しないまま、要点だけをつかんで問題を解き進めていけばいいのに。何故かそれができない」と語っています。つまり「人の心の問題について、適当に処理して受け流せない」ということであり、真面目に捉えて考えがちな性格であるということです。現代文のテストはべつに人の心が理解できなくても解けます。ただ、そこで理解できずに前に進むという割り切りが苦手な沙季は、そういうふうに解くことができず、そして時間切れになってしまって大した点数が取れなかったわけです。これはテストの点数のみならず、沙季自身の精神性が色濃く出ている特徴ですね。

・タオルケットの話
前回、「タオルケットをかけたということは悠太は沙季の部屋に入ったってこと?」という読み取りかたをしている声をいくつか見かけました。なるほど、そういう考えもあるのかと思いつつ、実際のところは沙季は自室じゃなくてリビングで勉強していたために悠太が寝落ちしている彼女に気づいてタオルケットをかけることになったわけですね。
頼まれたわけじゃないけれど、よけいなお世話かもしれないけれど、その人のためになると信じて何かをする。そういうことがちょっとずつ二人の間で増えてきています。

・真綾の撮影を嫌がる沙季
これも原作小説にあったやり取りが悠太視点ではカットされていましたが、日記パートで回収されました。
最初の顔合わせでも言っていたように沙季は写真の撮影を嫌がります。たぶん、動画もそう。今の状態の自分の姿が半永久的に保存されるのを避けている節があります。その理由などは原作小説の最新刊で語っていますので、あえてここでは明言しません。

・沙季の嘘と本心
日記パートを観るとわかると思うのですが、実は悠太に対して発した言葉には多くの「嘘」がありました。
雨の日、どうして帰りが遅くなったのか。どうして連絡がつかなかったのか。バイトの面接に応募したのに黙っていた理由。ここ数日の沙季の言動は「嘘」だらけで、本心をまったく言葉にできていません。
もともと沙季と悠太は「お互いに相手に期待しないで生きていこう」と約束しましたが、それは「何か気になることがあれば我慢したり嘘をついたりせず(相手に察してもらうことを期待せず)、しっかり内心を開示してすり合わせていこう」という約束です。
この一週間の出来事の中では、たとえば現代文を教え始めたときに「痛いところを突かれた気がしてちょっと嫌な気分になった」と素直に開示するところ等にそれが表れています。
モヤモヤした気持ちを抱え込まずにしっかりと言語化し、相手に開示することが大事だというのが沙季の価値観で、それゆえに『三四郎』で主人公たちが自分の感じた素直な感情を言葉にしないことが理解できずにいました。
しかしこの一週間、沙季は悠太に対して嘘をついています。素直にモヤモヤを開示してすり合わせることをせずに、自分の中で勝手にモヤモヤしています。これはもちろんポリシーに反するアウトプットなわけですが……沙季は人間ですので、こういった「理性ではそれが大事とわかっていることが実行できない」ということが起きたわけですね。
TVアニメ『義妹生活』への感想を見ていると、どうやら中には沙季や悠太の言葉を額面通りに信じている人が多かったように思います。3話の日記パートでこの作品は登場人物のセリフが必ずしも本心とは限らないと伝わっていたかなと思っていたのですが、必ずしも伝わっているとは限らなかったようです。ですが、この7話の日記パートでよりわかりやすく、明確に、沙季が嘘をついていることがあると伝わったのではないでしょうか。
沙季本人が言っているように、彼女自身が小説の登場人物のようになってしまった――つまり、表面的なセリフだけで感情が読み取れず、チグハグとなっており、行動などと合わせて推察することでしか本心を導き出せない存在となってしまったということですね。彼女はそれを「小説の登場人物」と表現しましたが、むしろそれこそが人間そのものなんだよなぁと私は思います。

・水の中で眠っている幼い沙季
上野監督がこの日記パートで幼い沙季を描いたことで、私の中にずっとあった大きな疑問が解決しました。実は私がこの長文解説をやろうと思えるぐらいにこのTVアニメ「義妹生活」にハマりこんでいるのは、この7話の日記パートから12話にかけての素晴らしい表現の数々に完全にやられてしまって、綾瀬沙季という存在に対して初めて愛おしさみたいなものを感じてしまったためです。(私は原作者ですので、事前に正式な方法で全話視聴済みなのです)
私の中にずーーーーーっとあった大きな疑問。それは、「なんでOP映像、子どもの頃の悠太と沙季をこんなに描いてるんだろう……」でした。特にサビの部分。一番の盛り上がりどころであるサビの部分を、ほぼずっと子どもの姿で描いている作品を私はあまり知りません。基本的に私のアニメ化のスタンスは、アニメはアニメ、原作は原作。アニメ制作のための取っ掛かりに原作の情報が必要であれば提供するけれど、アニメをこうしてほしいとか、自分の作品のアニメはこうあるべき、みたいなことは何もありません。なので、監督がそうしたいというのであればNGする気もなかったので、意図はわからないけど、なるほどそういうものか、とOP映像についてはぼんやり眺めていました。
しかしこの7話の日記パートで、水の中で眠っている幼い沙季を見て、「あ! そういうことか!」ととても気持ちよく腑に落ちたのです。
水の中、というのは言うまでもなく「人にとって息苦しい場所」です。沙季の心象風景として、水が使われることが非常に多い。この日記パートの最後でも水の中に沈んでいるような表現があります。それを踏まえて水の中(上)で眠っている幼い沙季を見ると、これはもう沙季の心の中で封印している「子どもらしさ」の表現に他ならないわけですね。
子どもの沙季は眠っていて、水の中、外界と関わることがなかった。ところがここで子どもの沙季は目を覚まします。目を覚まして、傍らに置いてあった電話で誰かに話しかけます。すこしだけ子どもらしさが目覚めて、外と関わろうとしている。――それが、行動として悠太のバイト先で働き始めるという現実の行動に繋がっているわけですね。
これは沙季の甘えの象徴であり、しかし同時に沙季自身、その目覚めた子どもらしさに困惑しているというか、全面的にそれを受け入れる気はなさそうです。まだどうすればいいかわかっていない状態。せめぎ合っています。
さて、ここでこの「幼い沙季」が表現しているのはそれなんだ、なるほどー、とぼんやり納得した視聴者の皆様。それだけじゃないんです。幼い沙季にフォーカスするのは、べつに沙季の子どもらしさの比喩表現というだけじゃないんです。幼い沙季を何度も見せられていることで、全部がきれいに繋がっていくんです。ホントに。もう。いや、駄目だ。これ以上は7話の話じゃなくなってしまう。えっと、はい。ここまでにします。9話はまだか? 2週後か。そうですか。ううっ……。

・「本当に興味ないとそこまで気づかないものなんだ」
秋服を飾り始めたマネキンを見ての一連の会話の中で、沙季がぼそっと口にした言葉。
これは沙季の中でホッとした場面です。
この帰宅シーンの前にあったことといえば、書店バイトでの出来事でした。お客さんの問い合わせに対して沙季は本を見つけられず、悠太はあっさりと見つけ出してしまいました。もちろん書店でのバイト経験が豊富なのですから沙季よりも得意なのはあたりまえなのですが……沙季はこの件だけでなく、あらゆる場面で「悠太はよく気がつく人」と思っています。なので悠太がよく気がつく人だから本も探せるのだろうと思っていました。
しかしこの帰り道でのやり取りで、悠太にもまったく気づけない分野があるのだと知ります。興味の有無やふだんの目付け次第で、気づけるかどうかは全然変わってくるんだと、沙季が理解し、今後の彼女にさりげなく影響を与えていきます。

・原作小説とTVアニメの構成の違い
TVアニメ「義妹生活」と原作小説との大きな違いの1つがこの7話です。
7話のエピソードは、実は原作小説3巻の内容に入っているのですが、日記パート自体は2巻ラストのものです。
原作小説2巻は「Q.綾瀬沙季、お前の醜い感情の正体をひと言で述べよ。A.嫉妬です」という日記で3巻へのヒキとしていて、沙季が嫉妬を感じながら日々どんな生活を送っていくのかの具体的なシーンが3巻の前半には詰まっていました。TVアニメ版ではあえて日記パートを原作2巻範囲のエピソードの直後に差し込むだけにせず、原作3巻の内容とクロスさせることで、より沙季の嫉妬感を強めてくださったのかと思います。(もちろん尺の問題もあるとは思いますが)
読売先輩について悠太が話すときの反応、真綾に誘われたプールについての反応。沙季の反応の数々が嫉妬に繋がっているというのが視聴者にもじゅうぶんに読み取れるような描写を重ねた上で、現代文の模範解答のように「嫉妬です」で収める。とても素晴らしい7話の構成だったように思います。

さて、7話もめちゃくちゃ素晴らしかったわけですが、次回の8話。「沙季の可愛さ」という意味では、何か凄いものがきます。あとこれまでアニメで見たホットミルクの中で一番おいしそうなホットミルクがきます(笑)
楽しみに次回をお待ちください。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1824083179910946917

【8話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』8話、解説・感想(※長文です)】
8話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(8話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)
尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。
私の解釈が絶対の正解というわけではないので、皆さまも自分なりにこのアニメ作品から受け取ったものを素直に受け取って独自に解釈してもらえればと思います。

では、始めます。

・亜季子さんの見ている世界
亜季子さんが仕事帰りの道中で子どもの姿を見て、過去の沙季との出来事を思い返しているシーンがありました。ふとしたときに沙季の小さな頃を思い返してしまうということは、沙季の中にまだ幼い沙季が眠っているのと同じように、亜季子さんの中にもまだ幼い沙季の幻影がくすぶっているということなのだと思います。親として自分は本当にうまくやってこれたのか、沙季にとって良い親で在れていたのか、心の奥底ではあまり自信がないのかもしれません。
ところでTVアニメで初めて亜季子さんに深くフォーカスされたので、原作でも特に具体的には書いてこなかった裏設定のようなものをちょろっと出してみようかと思います。
亜季子さんの現在の職業はバーテンダーですが、もともとはもうすこし水商売寄り、接客寄りの仕事をしていました(具体的にどんな種類の夜職かはご想像にお任せします)。沙季が幼い頃はそういった仕事が多く、沙季が中学に上がったあたり、30代半ばぐらいのタイミングで仕事を変えています。バーテンダーの中でも特に接客、トークが上手いのは、前職の経験も込みでのスキルとなります。キャリア選択を意識するタイミングだったのと、中学生で多感な時期(特に性的な内容、偏見的な内容でウワサの出回ることの多い時期)なのもあって、そういったことで沙季が何か嫌な思いをしているかもしれないことを悟って、同種の世界の中で比較的そういったイメージの少ない仕事にシフトしました。もちろん元の仕事にも誇りを持っているし、沙季もそれに対する偏見はありませんが……亜季子さんとしては沙季を守るための選択でした。それに亜季子さん自身、バーテンダーの仕事もやりたかったことのひとつ。けっして無理はせず、ベターな選択をしたということですね。稼ぎは前職のときより減ってしまっていて、そのためあまり余裕は生まれず、沙季も自分を守るために母親が収入を減らしてでも転職したと思っているので、結果的に沙季はさらに亜季子さんを気遣うようになり……まあ、それが良かったのかどうか、亜季子さん自身も測りかねているところなのでしょう。

・ジワジワ効いてくるOPの幼い沙季
TVアニメでどんどん増えてくる幼い沙季のシーン。そこにいつものOP映像……幼い沙季がバスの中で目を覚ます映像を見ると、なんだかジワジワと胸が絞めつけられる気がします。これ、監督やアニメ制作チームの方々は計算していたのでしょうか? OPで幼い頃の沙季が長い尺で描かれていることが、こんなにも視聴感に響いてくるなんて。アニメならではの心ゆさぶられる仕掛けだなと思いました。

・亜季子さんが再婚しようと思った理由
結婚前、太一も亜季子も現在の状態が理想的なものだとは考えていませんでした。子どもたちが達観していて、非常に危険なバランスの中で生活していることを理解し、心配していました。特に亜季子は、このままの生活環境で沙季を育て続けることに限界を感じていて、もしかしたら大学も亜季子を慮って自ら選択肢を狭めてしまうのではないかと心配しておりかなり現実的な視点で太一との再婚を決断しています。もちろん利用しようとか、寄生しようとかいうつもりは毛頭なく、太一と二人で会話をしていく中できっとお互いに良い事になるのではないかと思っての決定ですね。
実はこの二人が再婚するにあたって、どんなやりとりをしていたのか。なぜ、このタイミングで再婚することにしたのかがわかるコンテンツを現在作成中です。どういう形式での発表になるかはもうしばしお待ちくださいませ。

・藤波夏帆、登場
悠太と同じ予備校に通う女子生徒、藤波夏帆の初登場です。TVアニメではかなりあっさりめの初登場となりました。
原作小説では読売先輩にシミュレーションゴルフに連れて行ってもらい、そこで初めて目にする人物なのですがTVアニメでは微妙に異なる登場です。この後のシーンもそうなのですが、物語をしっかりまとめるために大胆なシーンのカット、組み換えをしているため悠太と沙季の物語上絶対不可欠とまでは言えない部分は消えてしまっています。
このあたり他のキャラクターのファンの人にはごめんなさいといったところですが……。もともと原作小説では「悠太や沙季の視点で生活を描く」がテーマであることもあり、他の登場人物にも他の登場人物なりの人生があることがうかがえるようなシーンが多いです。丸、真綾、読売先輩、そしてこの藤波夏帆は特に顕著ですね。なので原作小説であったその人物のこのシーンが観たかったなと感じられることもままあると思います。……が、悠太と沙季の物語に完璧にフォーカスを合わせるのであれば致し方ないのかなと思います。
藤波さんはあっさり現れた人物ではあるものの、悠太と沙季の関係、そして悠太の今後において非常に重要な人物です。今後の登場を楽しみにしていてください。

・読売先輩と大学の先生
「大学の先生に論破されてぐぬぬ~してたところを見られてたなんて」と話していますが、この直前にあった出来事(原作小説では描かれていた出来事)が大きくカットされており、このシーンに繋がっています。
悠太は予備校からバイトに向かう途中なわけですが、自転車で向かおうとしている途中、読売先輩が大学の先生と数人の学生といっしょにカフェでパンケーキを食べているところを目撃します。先生は栞が所属しているゼミの先生。休日なのでこの日は大学があるわけではないのですが、先生はおいしいパンケーキをおごることを条件にゼミ生と論戦を交わす……みたいなことをしており、栞がこのあとバイトがあるから移動しやすいようにと渋谷のカフェを選んでいました。
実はこの先生も重要人物なのですが……登場はおあずけ。どこで、どんなふうに出てくるのかはお楽しみに。

・沙季のセリフを思い出しながら、秋服のマネキンを見る悠太
悠太が「そこまで関心がないと気づかないものなんだ」と言われたときのマネキンを見ています。その前後で思い出していることは、「あなたに何も期待しないから、私にも何も期待しないでほしいの」と真綾について語るときのセリフです。悠太はここで沙季に対して強く踏み込むかどうかを考えているのですが、それをモノローグをいっさい使わず、沙季に対しての関心を表す「マネキン」、一部のセリフのフラッシュバックだけで表現してみせるのだからすごいことだなと思います。お互いに期待しない=強く関与しようとするのは約束が違うと思いつつ、それでも真綾のことを語る沙季の姿を思い返すとその真綾から誘われたプールに行かないというのはかなり無理をしているように感じて、彼女をどうにかプールに行くようにさせたい、どうすればいいのか? といった葛藤を静かに描き出しています。

・沙季、同居生活で初めての寝坊
沙季が寝坊し、悠太より遅く起きるのは初めてです。沙季はいつも家族のだれよりも早く起きて、完璧に身支度を整えた状態で朝食の準備を始めていました。武装モードを家の中でも崩す気がない、寝起きの油断した姿を誰にも見られまいという行動です。なので悠太は常に、完璧に身支度を終えた後の沙季の姿しか見ていませんでした。
しかしこの日、沙季は寝坊しました。最低限の身支度こそして出てきていますが、それでもいつもの完全無欠な姿とは程遠いです。
悩んで、悩みを打ち消すために勉強して、勉強しても集中しきれず悩んで、そういうのを繰り返していくうちに朝が来てしまって不十分な睡眠を取れていません。
悠太や亜季子さんが心配していた勉強漬けで息抜きをせず、ストレスを発散できないでいた先の状態がまさにこれですね。まあ今回は勉強だけのストレスでこうなったわけではないのですが、皮肉にも悠太たちが心配している状態に、勉強以外の理由ですぐに至ってしまったという……。まあ勉強が理由だろうがそれ以外のことが理由だろうが、沙季の生き方はいずれこういったバースト状態を招くもの。それが最もマシな形で早めに出たのは、不幸中の幸いですね。
ところでこれはとても大事なことなのですけれど、寝不足で目覚めたときの沙季の手足を伸ばして呼吸するところ。めちゃくちゃ良いですよね。

・おいしそうなハムトーストとホットミルク
世界一おいしそうなハムトーストとホットミルク! そしてトーストをかじるときの世界一おいしそうな音! 私のアニメの素養が足りないだけかもしれませんが、庶民的な食事風景をここまでおいしそうに、臨場感たっぷりに描いているアニメってかなり珍しいのではないでしょうか。ホットミルクをかき混ぜているところとか、凄すぎてシロバコ見ててちょっと笑みが漏れちゃいました。あと、悠太の所作をじっと見て、真似するようにハムトースト食べてる沙季が可愛すぎる。文章でもイラストでも漫画でもできない、動きだけで可愛いという表現。とても良い。
ところで悠太はハム焼いたり、トースト焼いたりは慣れています。太一と二人で暮らしていたとき、料理はほとんどしてなかったけれど、代わりに簡単なものはたくさんやってきているので。トーストやら何やらをいろんなバリエーションでおいしく食べる工夫はしてきたんじゃないかなと思います。

・沙季の心変わりは突然?
昨夜まで「プールには行かない」と言っていた沙季が、一夜明けて突然「プールに行ってもいいよ」になる。これ、フィクション的にはあまりないことでして。フィクションでは基本的に心変わりにはイベントがつきものです。こういう出来事があったから、こういう考えに変わった。こういうことを言われたから、こうすることにした。みたいな因果関係がわかりやすいことが多いです。しかし原作小説ではそれをあえてやらず、ひと晩悩んで寝て起きて意見を変える、という現実でもよくあるプロセスで沙季が意見を変えるように描いています。
その表現は、アニメのような映像作品で見せ方を間違えると、本当にただ理由もなくいきなり心変わりしたように見えてしまう危険を孕んでいました。
ですがTVアニメ「義妹生活」では原作小説よりもかなり丁寧に、わかりやすく、沙季の心変わりに至るまでの流れを描写しています。ホットミルクの表現もそうですし、このあと解説するアニメオリジナル要素「カセットテープの記録」なども使って、繊細に、しっかりと伝えきってくださいました。

・「つい習慣で」「まあ、そういうこともあるよね」久しぶりに笑った沙季
悠太と沙季は互いに思いやったり、気遣ったり、尊重はしていたものの、どこまでも足をそろえて一緒の時間を過ごしていたわけじゃなかった。あくまでも自分の生活ルーチンを維持したまま、ときたま交わる瞬間だけすり合わせを行なってきたわけですが……ここで初めて悠太が自分ひとりのルーチンを維持したままではおかしい、ずれていることを自覚した――という示唆ですね。
もっともこれまではバイト先にも行くときは一緒には行っていませんでした。TVアニメでは特に描写がありませんが、原作小説では明確にそのように描いています。帰り道だけ、亜季子さんからの条件で(夜の渋谷を沙季一人で歩かせたくないという理由で)一緒に帰っていましたが、それだけです。なので悠太もこれまでの習慣どおり自転車で通っていて、帰りは自転車の悠太+徒歩の沙季という組み合わせになっていました。今回、初めて二人一緒にバイト先に向かうということで、二人で並んで歩くのだから自転車は最初からいらなかったはずですが……習慣で、癖で、つい自転車を押してきてしまったというわけです。
交わった、けど、まだ微妙にずれている。それがちょっとおかしくて、沙季は一気に肩の力が抜けたのだと思います。久しぶりに笑って、「楽しみ」と言いました。悠太は、一歩踏み込んだ結果に沙季からポジティブな反応が来たことで、きっと何かを感じたのではないでしょうか。何を感じたのかは、彼自身、言語化できていないと思いますが。

・カセットテープの記録
原作小説には存在しない、100%TVアニメオリジナルの要素です。しかしこれもまた、私が小説を執筆する際に見落としていただけで、きっとこの二人の人生の中に存在した物だったのだろうと納得しています。
1話を覚えているでしょうか? 沙季はこの家に引っ越してきたとき、物置きがわりになっていた部屋を片付けて自室に変えました。つまり沙季の部屋のクローゼットやそこにもともと置かれていた段ボールには、浅村家の過去の痕跡が残っていたわけです。幼い頃に悠太がどんなふうにこの家で過ごしていたのか、それを、壁に残されたシールや置かれていた水槽や、カセットテープから感じ取っていました。
今となってはあまりないかもしれませんが、家族の思い出をテープに残す、記念テープというものがあり、沙季が聴いているこれは、そういったたぐいの物なのだと思います。このあたりは原作小説に存在せず、上野監督の発案によるものなので、私も確かな答えは持っていませんが。
アニメだと文章表現でやるよりもどうしても文字情報と言いますかモノローグや確固たる言葉としての情報が少なくなってしまうわけですが、こうやって幼い頃の悠太との接点を沙季に作ることで、感情変化や好意を抱いていく過程をわかりやすく表現しているのだなと思うと……職人芸を感じずにいられません。

さて、ここまで丁寧に、丁寧にさまざまな感情を積み上げてきました。
しかし、お気づきでしょうか? お気づきの方もきっといるかと思います。そう、ここまで、悠太のモノローグがほとんどないのです。
沙季は日記パートで深く内心が語られており、そのおかげで明確な言葉にするわけでないシーンにおいても、声の抑揚や表情の些細な変化でなんとなく心情が察せられるようになっていました。
しかし悠太は、どうか。視点、カメラの位置こそ、基本的に悠太を映し続けていたものの、心の声という表現をほとんど使っておらず、セリフか表情、しぐさだけで表現され続けてきました。彼がいったい何を考えているのか、どう心が動き、どうなっていくのか。それが初めて描かれる瞬間をぞんぶんに堪能してほしいです。
次は9話。ある意味で、私がいちばん好きなエピソードかもしれません。個人的には非常に恥ずかしい、原作者としてあるまじき感想を抱いてしまったエピソードでもあります。あと一週間。視聴者の皆さんに観ていただけるのが今から楽しみです。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1826619981985185932

【9話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』9話、解説・感想(※長文です)】
9話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(9話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)
さて、この9話はアニメのシロバコを見せていただいた時、最も心を動かされた、最もお気に入りのエピソードです。ようやくこのエピソードについて語れる日が来て、とてもテンションが上がっています。
又、この9話は私がこうして長文解説・感想を投稿してみようと思ったきっかけのエピソードでもあります。
何かいまだに誤解されている方もいるのですが、私が毎週この長文解説・感想を書いているのは、「制作者として」ではありません。たしかに私は『義妹生活』の原作者ですが、TVアニメは上野監督の作品であり、スタジオディーン様の作品であり、アニメ制作に実作業として携わったすべてのスタッフの皆様の作品です。脚本協力や監修という形で補助こそしていますが、このTVアニメはすべてアニメ関係者の方々の力で作り上げられていて、その評価も功績もすべてはアニメ関係者の方々のものです。
その前提の上で、私はこの9話を観て、制作者としてではなく、1視聴者として、何か猛烈に、不可逆的に、ファンになってしまいまして。1人の上野監督ファン、アニメ制作チームのファンとして、長文オタク語りをしたくなってしまった……という次第です。
まあもちろんそうは言っても原作者の立場でもありますから、完全な視聴者サイドに居座るわけにもいかず……長文解説・感想が、結果的に読者様、視聴者様向けのコンテンツと化してしまったわけですが。
まあ、そんなわけですので、私の解説・感想なんて正解でも何でもなく。「最も裏情報を豊富に持っている人間が書いてるだけの、ただの個人の感想」として読んでいただけると幸いです。

では、始めます。

・水槽に触れたり、離れたり
上野監督がこの作品で徹頭徹尾意識して描いているのは「距離感」です。それも、この人物とこの人物はこれぐらいの距離です、といった表現ではなく、遠くからだんだんと近づいていくという表現でもありません。「近づきたくて、近づく」「離れたくて、離れる」「近づきたいけど、離れてしまう」「離れたいけど、近づいてしまう」――といった機微を表現しているのだと思います。
冒頭の沙季の語りに合わせて水槽の中のメダカに手を近づけたり、離したり、という演出に、沙季の性質がよく表れているのではないでしょうか。沙季のそれは、傷つきたくない、と、傷つけてしまいそうで怖い、という感情がないまぜになったものであり、それをストレートにセリフにしてしまうのではなく、こうしてメダカと水槽を使って画面演出にしているのがすごく良いなと思います。

・日記の声と副音声
「なら無理に参加しなくていいんじゃないかな」(だって、私は遊んじゃいけないんだもの)
「行かないよ」(行けないよ)
原作小説の日記パートで、ここでの沙季は、悠太に対して実際に言った言葉と本音が副音声のように重なっている感覚になっている――と記述していました。アニメでもしっかりとその状態を表現してもらっていて、なるほど、映像にするとこうなるのか! と感動している部分のひとつです。

・心象風景の海
浅村家の家族記録を聴きながら、沙季はそこに自分たち綾瀬母子もいる様子を重ね合わせて空想しています。もちろんこれは実際にあったことでも何でもないです。
悠太はテープの中で「次はお母さんも一緒に来れるといいね」といったことを言っていて、この時からすでに浅村家の両親の不仲が始まっていることが伺えます。沙季は自分の家庭のことも思い出しつつ、もしこのときに綾瀬母子がすでに浅村父子と家族だったなら、もしかしたらお互いに素直に笑い合える兄妹になっていたのかもしれない。互いに癒やし合える関係になれた、あるいは、これからなれるのかもしれない。そういったいろいろな事に思いを馳せていて、それがホットミルクを飲んだときの彼女の心象とリンクしている。……そのような演出なのだと思います。
なんでこの時代にカセットテープ? という疑問に関しては、太一がレトロ趣味なのでしょう。

・幼少期の沙季と、カバ
亜季子に連れて行ってもらった動物園のカバ。沙季はそれを「かわいい。かっこいい」とうれしそうに眺めていました。個人的にここは沙季の感性がよく表れているなと思っていて、ウサギやネコなどをかわいい、ライオンやトラなどをかっこいい、と評することが多いであろう中、ちょっと抜け感のある、それでいて実はめちゃくちゃ強いカバという存在に直感的にかわいさとかっこよさを感じている……すごく沙季らしいな、と思います。悠太のことを「かっこいい」と評するのも、べつに一般的な感覚がどうかは知らないけれど沙季が主観的にそう思うっていうところとも繋がっていて、すごく「らしさ」を感じます。
又、このカバのぬいぐるみ。今でも沙季のベッドの上にいるんですよね。たまに、カバのぬいぐるみを抱いて寝ていたりしているわけで。幼少期に亜季子さんに買ってもらったカバのぬいぐるみを、今でもずーーーっと大事にしているの、なんと言うか、すごくかわいいと思うんですよ。うん。このあとの展開も相まって、カバのぬいぐるみが画面に映る度に涙腺がゆるんでしまう自分がいます。幼少期の思い出と、このカバのぬいぐるみはズルいですって。ズルい。

・プールでの友達との交流
あっさりめに描かれていますが、浅村くんのコミュニケーション能力の高さが描かれています。ひとくちにコミュニケーション能力が高いと言っても、彼の場合は、そつなく敵を作らないコミュニケーション能力ですね。自然に溶け込むことができるというか。精神的には得意ではなく、むしろ苦手としているのですが。技能的には得意である、といった感じです。このあたり女性が苦手なのに読売先輩や初対面の沙季とそつなくコミュニケーションを取れていることにもつながっていて、浅村悠太という人物が一貫性をもって描かれているなと感じました。
逆に沙季は基本的には真綾以外の人とそれほど上手にコミュニケーションは取れておらず、真綾を通してのコミュニケーションとなっています。
些細なカットの中にそれらがさりげなく描かれていて、あー……生きてるなぁ……と、感じずにいられませんでした。

・悠太の感情、自覚のシーン
実はこのシーン、アニメ化が決まった際に私が最も心配していたシーンでした。
「え? ここ、どう描くんだろう?」と。悠太が好意を自覚するという大切なシーンであるものの、原作小説では通常のやり方ではあまりやらないやり方を採用しており、これが映像演出と非常に相性が悪いものだと考えていました。通常、キャラクターが恋愛感情を自覚するとか、何らかの心変わりを起こす場合、何らかのアクションやイベントを経て、読者にも絵的に理解しやすい演出とともに行います。しかしここでの悠太の好意の自覚は、ほとんど彼のモノローグの中で完結しており、そして、ふっと急に浮かび上がったような自覚の仕方をする……という流れにあえてしています。実在感を意識するにあたって、私の中で、そのように描きたい、そのように描いた方がいい、という確信があったためです。
ですがモノローグを抜きにして起きている出来事をそのまま映像にしたら、ただただ沙季の水着姿に見惚れて、好きになってしまったようにも見えてしまう。それぐらい、感情の変化のトリガーが絵的にわかりにくいということは不利なことだという自覚がありました。
でもこの長文解説・感想を読んでいる方は、もうわかっていますよね? 完成した映像は、そのような誤解が生じる余地の一切ない、完璧なものであったはずです。悠太が沙季のどこに惹かれているのか、沙季がどうなったから好意を自覚するに至ったのか、とても丁寧に、それでいて説明ではなく映像演出で、しっかり理解できるようになっていました。
ここでも悠太と沙季の幼少期の姿をアニメオリジナルで描き続けてきたことが生きてきます。
原作小説で、悠太は沙季への好意を自覚する直前、このようなことを考えています。

————
 そう返すと、綾瀬さんは小さく笑みを浮かべた。
 家で見せるドライな表情でも親父に対しての慇懃な笑顔でもなく、そう、たとえるなら写真の中の幼い頃の綾瀬さんに似た、あどけない笑顔。
 ああ、無理して踏み込んでよかったなぁと、しみじみと思う。
※引用:『義妹生活』3巻203ページ
————

つまり彼は、クールでドライに見える綾瀬沙季の中に残る、あどけなさの片鱗――彼女の最も奥深くに眠っていたものに触れて、好意を自覚するに至ったわけです。それは彼自身の中に共鳴するものがあったからであり、彼の中で欠けていたものであったからでもあり……綾瀬沙季という人物の魅力の本質に触れたからです。
ここまで描いてきた綾瀬沙季という存在の積み上げと、そしてプールでの沙季の表情、のびのびとしたしぐさ、風、音、劇伴……何もかもが綺麗に絡み合って、最高の瞬間が演出されました。
これ、視聴者の方も悠太と同じような感覚で、これまでの沙季の様子と、幼い頃の沙季の姿と、いろいろなものがよぎって、沙季への感情が昂って、心をつかまれてしまったのではないでしょうか。
ええと、ここからは大変お恥ずかしい話なのですが……私は自分の書いているヒロインを本当の意味で好きになったことはありませんでした。もちろんこの子の魅力はこうだ、とか、この子は可愛いなぁとか、そういった感性は持ち合わせているものの、心の底からハマってしまう、みたいな感覚にはなれませんでした。というか、プロの作家になってから、心の底から惚れこんだキャラクターは自分の作品に限らずほぼいないと言っても過言じゃありません。
でもこのシーンを見たとき、私の心は完全に思春期に戻りました。不覚にも、一瞬、沙季に対してガチ恋のような感情を覚えかけて、ハッと我に返りました。いやいや何言ってるんだ、自分の作品のキャラだぞ。こんな1オタクみたいなハマり方するな。どんだけ自分の作品好きなんだよ、適切な距離を保てよ……と。でもまあそこでもう一度ハッとしまして。
「よく考えたらTVアニメは上野監督やスタッフの皆さんの作品だな。じゃあ、ドハマリしてもいっか!」
と気づき、無事、こうして限界オタク怪文書製造マンと化しました。(情緒のぶっ壊れ第1弾)

・悠太のモノローグ
ここまで悠太のモノローグはかなり少なく、最低限のものしかありませんでした。
原作小説では浅村悠太視点の私小説の側面を持っている性質上、当然のことながら基本的に地の文で悠太の思考が描かれることになります。しかしここまであまりモノローグを使わずにきたのは、たぶんですが、上野監督がラジオやインタビューで仰っていた、悠太と沙季の間に無遠慮にカメラとして入っていくのがはばかられた――という感性によるものなんだろうなと思っています。結果的に、とっておきの、どうしてもここだけはモノローグで描かなければいけないというピンポイントな場所でモノローグが使われることになり、悠太のモノローグがとんでもない破壊力を発揮したのでしょう。

・帰り道の会話、ぎこちない悠太
プールからの帰り道、セリフにこそなっていませんが、悠太は真綾とLINEのIDを交換しています。これを見て沙季は、「真綾とも仲良くなったね」と悠太に対して言います。悠太が真綾を褒めると、沙季は素直に(あるいはフラットに)「ありがとう」と返してきます。真綾は友達だから、友達を褒められると私もうれしい、と。この一連のやりとり、とても面白くてですね……天﨑滉平さんの絶妙な演技が光る場所でもありまして。悠太はこれまで真綾と仲良くしていても、読売先輩と仲良くしていても、特に沙季に対して後ろめたい様子はいっさい見せてきていないんですね。フラットな感覚で接してきたので、あたりまえではあるのですが。悠太は何も思っていないのに、沙季が勝手に嫉妬を覚えている……というのがこれまでの描かれ方。ですが、好意を自覚してからの悠太は、「真綾と仲良くなったね」と沙季に思われることに後ろめたさというか、誤解されたくないという思いがちょっと滲んでいたり、会話の細かいところにぎこちなさが表れていました。
些細なことですが、個人的に好きな場所です。

・アニメオリジナルの花火
原作者が書き忘れていた花火!! 長い言葉は不要。良かった。めっちゃ良かった。
花火の光で照らされる悠太と沙季の顔。そこで高まっていく感情。音も素晴らしかった。
あらゆる手段で高めて、高めて、からの――「兄さん」。
うわああああああああ、ってなりました。(情緒のぶっ壊れ第2弾)

・沙季からの、「兄さん」
なぜ沙季がここで「今、言わなければと思った」となったのか。アニメではハッキリとは言及していませんが(読み取ろうと思えば感情は読み取れますので、描かれてはいます)、沙季は、悠太の中に芽生えた好意の自覚を、敏感に察しています。理屈ではなく、感覚で、べつに確信があったわけではなくもしかしたら自分の都合のいい妄想かもしれないと疑いつつも、悠太の自分に対しての視線や感情が変わったように感じています。そしてそれは沙季自身の感情の高まりも合わさって、このまま良い雰囲気で会話を続けたら、お互いに恋愛関係を望むような言葉を発してしまうのではないか、告白してしまうのではないか、と怖くなってきました。
そのため、ここで一線を引かなければならないと感じ……「今、言わなければと思った」に繋がるわけですね。
彼女のこの感情の流れ、不思議に思われるでしょうか? 不思議に思う人もいるかもしれません。
ここまで嫉妬心を抱くほど強く悠太に惹かれていて、彼の好意を欲しいと思っていたであろう沙季。両想いなのではないかと感じたのであれば告白し、付き合えばいいじゃないかと思われるでしょうか。
でもそういうわけにはいかないのです。これは沙季の恋愛観、悠太の恋愛観が関係してくるのですが……詳細は以下の「悠太と沙季にとっての「恋愛感情」とは?」であらためて語ります。

・「どんな顔して家に帰ればいいんだよ……」の天﨑さんの神演技
ここ、ヤバかった。ホント、「つら……」ってなりました。
というか9話の一連の悠太の感情、天﨑さんの演技、すべて感服でした……。

・悠太と沙季にとっての「恋愛感情」とは?
これ原作小説でもたまに伝わりきってないことがあるなと感じていて、自らの力量不足を嘆くばかりなのですが……悠太と沙季が恋愛感情に蓋をしてしまう理由を、「義理とはいえ兄妹だから」という倫理上の問題だけだと読み取っている方もいるようで。ここでもうちょっと突っ込んで解説してみます。
兄妹だから駄目なんだ、というのは、あくまでも1要素でしかなく、二人の恋愛を邪魔しているのは、悠太と沙季、二人の「恋愛観」です。兄妹での恋愛が禁忌だから駄目、ということだけが問題なのであれば、「義理なんだからべつに問題ない」とか「この両親なら認めてくれるし、付き合える」という簡単な解決の道筋でどうにかなるのでしょう。
ですが、違うのです。
今のこの二人にとって、恋愛関係とは、「いつか絶対に壊れる関係」なんです。両親の不仲の影響で悠太も沙季も異性に対して期待しない人生を送ってきていて、恋愛というものを冷めた目で見てきました。しかも恋愛関係が壊れる時というのは、修復不能な壊れ方をするものだと感じていて、そうなれば永遠に家族として元に戻らないと恐れています。
太一と亜季子は、ようやく幸せな時間を過ごせそうで、子どもたちとも家族として幸せになりたいと考えているだろう……と、悠太も沙季も考えています。ですが悠太と沙季が仮に恋愛をし、破局した場合、きっと幸せな空間は保てない。それを二人は恐れているのです。
さて、ではここで3話の沙季の行動を思い出してください。あのとき、悠太に対して性的な接触を試みてきた沙季ですが……あのとき、沙季はべつに悠太に対して恋愛感情を抱いていません。好きだからやったわけじゃない。その逆で、感情とは切り離した機能的な関係の構築をしてしまおうとした、とも言えます。機能的な関係性は、致命的な亀裂を生みにくいです。深く結びついて、いずれ致命的な亀裂を生じさせるのが恋愛関係だとすれば、機能的な関係は、浅く結びついて、小さな亀裂を残しながらも両者都合がいい状態(ギブ&テイク、あるいはWin-Win)であれば維持し続けられるものです。だからあの行為は沙季にとってギリギリ試みられるリスク行為だったし、悠太にとっては「それも嫌」というラインの行為だったわけですね。

・亜季子さんの「悠太くんがお兄ちゃんで本当によかった」
ここのセリフについては、収録時のエピソードが印象に残っています。上野監督、小沼音響監督と、どんな塩梅のセリフにすべきかを話し合った記憶があります。
すごく難しいのが、悠太にとってはまるで「沙季は妹だから、恋愛対象にすべき相手じゃないからね?」と釘を刺されたように感じるセリフである必要があるけれど、亜季子さん本人にはべつにそのつもりはない、ということでして。結果的に上田麗奈さんが素晴らしい演技で表現してくださいました。

・髪を切った沙季
アニメのオリジナル演出によって、髪を切るという沙季の行動に何重もの意味が付与されました。スマホでビーフシチューを食べる幼少期沙季の写真を見せられるのはアニオリです。しかしあのシーンのおかげで、沙季の子どもらしい姿=妹らしい姿が写真として見せられて、その髪型が髪を切った現在の沙季の姿と似たシルエットになっている……そのため、悠太は強く「妹」を意識することになるということなのかなと思いました。
スマホの中の幼少期の沙季との重ね合わせ、「妹なのだぞ。兄妹なのだぞ」というのを視聴者にも一目でわかるように強調している。アニメならではの強烈な表現だったと思います。
ところで説明するまでもないと思いますが、沙季は冒頭で読売先輩のような「長い髪」が悠太は好きなんじゃないかと予想していて、それが今回の「髪を切る」という行為に繋がっています。髪を切ることが悠太に好かれようとする意識、未練のようなものを断ち切ることになると沙季は考えています。さて、ここで2話ぐらいまでの沙季を思い出していただきたいのですが。彼女は、悠太が女性用の下着をつけている可能性に思い至らないようでは駄目だと自分を律するくらいに、男性らしさ、女性らしさみたいな決めつけとかジェンダーロールのようなものを否定してきました。……が、ここでも自分の感情の矛盾、皮肉のようなものを感じています。髪の長さなんていう表面的なもので男らしさや女らしさが定義されるわけがないはずなのに、自分自身の意識がそれに振り回されている。この、理性ではこう思っていても、こうなってしまう……という、人間らしい揺らぎのようなものがここでも表れています。

・「ただいま、兄さん」
家族の前でハッキリと悠太を「兄さん」と呼んできます。明確に一線が引かれた瞬間です。
とはいえ、関係が後ろに戻ったわけではありません。
確かに本当の感情を我慢し、封印しているというのは、これまでの沙季もやっていることです。が、この「我慢・封印」はこれまでのものとは明確に違います。悠太に頼ろうとせず、距離も近づけず、という「我慢・封印」ではなく、悠太に頼る、妹としての距離感で接することにした上での「我慢・封印」です。そういうたぐいの変化であることは、沙季の「ただいま、兄さん」というセリフでも明らかですし、それを言ったときの中島由貴さんのお芝居からも見えてきます。これまでの沙季に比べて明確に明るく、家族としての信頼を含んだ、あるいは家族として距離を近づけたことを強調するかのような、そんな声になっていたと思います。
ここに至るまでの日記パートで描かれていた心象風景などを見ていけば沙季の心情がどのように変化したのか、何を受け入れて、何を捨てて、どうなったのかがわかるようになっているのではないかと思います。これをあんまり解説するのも野暮かと思うので、これ以上は言いませんが。

・「義妹生活」
というわけで、お待たせしました。「義妹生活」です。このタイトルは、悠太の目から見た「義妹と過ごす生活」と沙季の目から見た「義妹として過ごす生活」のダブルミーニングであることを、ここでハッキリさせました。
とはいえ当然、ここで終わりなわけではなく。むしろここから、義妹との生活、義妹としての生活を経て、二人がどんなふうにすり合わせながら関係を前に進めていくのか。どんどん楽しんでいけるようになっています。

ところでこの「この義妹生活に、もう日記はいらない」の部分ですが、中島由貴さんのお芝居といい、作画といい、ちょっと清々しさというか明るさというか、そういうものを含んでいる、悲しくなりすぎていない仕上がりになっていると思いませんか。原作者の私としてはちょっと驚いたところでして。もともと原作小説では沙季の頭の中の日記の文章であったこともあり、もうすこし淡々としたトーンだったり、決意に満ちた言葉、寂しさを滲ませる文章として意識していました。
ですが上野監督のフィルターを通して見たこの言葉は、ちょっと違った色合いでした。正直、収録の段階では、「ここのお芝居は悲しくなりすぎないように、もうすこし明るめに」という方向性のディレクションを100%理解できてはいませんでした。なので一度は「そこ、そういう方向性で行くんですね?」と確認したように記憶しています。ただ、私はアニメはアニメ監督が最終的な作品の責任を持つ船長であり、監督およびチームの作品であると認識しているので、その監督が確信を持ってそうだと言う方向性であればNGとは言いません。ですので、信じて様子を見ていたわけですが……映像が完成し、あー本当にお任せしてよかったなと、ホッと胸を撫でおろしました。
これはもう絶対的にこの仕上がりが良いと確信して……えっ、最初からこの完成図を想像できてたの? 凄い……と、感動しきりでした。

・日記を封印することの意味
実は先日、原作小説ではなく、YouTube版で、「沙季が日記をつけ始めた理由」という動画を投稿しました。
【動画のURL】https://youtube.com/watch?v=MhhSE09j3Gk
こちら小説版とYouTube版は微妙に異なるとはいえ、私が小説版に準拠して書き下ろした脚本の回は基本的に同じ出来事が小説版でも起こっていると考えていいです。で、ここでは日記を書き始めた理由のひとつとして、「新しい家族がひどい人間だった場合に備えた証拠機能としての日記」という性質があったと明かしています。
日記のルーツを思うと、「日記を捨てる、封印する」という沙季の行動は、万が一にでも日記が悠太や家族に読まれてしまうリスクを避けるためであると同時に、新しい家族=悠太や太一への信用が完成されたことの証でもあるわけですね。
恋愛感情の封印と家族としての信用完了が同時に来ているというのを表していて、義妹としての立場をしっかり受け入れることはけっして不幸なだけのことじゃない。家族が完成されたんだっていう明るい気持ちもあるし、恋愛感情を封印するんだっていう暗い気持ちもある。二つある幸せのうちの一つを選んだのだという感覚。そう考えると、このシーンはやっぱり明るさも含んだ表現になるのが正しかったんだなぁ……と、原作者なのにTVアニメから逆に気づかされてしまいました。

というわけで、9話でした。
ここまで長々と付き合ってくださり、ありがとうございました。1万文字は行かなかったけど、9500文字ぐらいだそうです。うわぁ……。
10話以降、悠太と沙季、二人の関係がどうなっていくのか。そしてどういう結末を迎えるのか。楽しみにお待ちください。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1829156647144677659

【10話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』10話、解説・感想(※長文です)】
10話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(10話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)

尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。
私の解釈が絶対の正解というわけではないので、皆さまも自分なりにこのアニメ作品から受け取ったものを素直に受け取って独自に解釈してもらえればと思います。

では、始めます。

・沙季と亜季子さんの会話
亜季子さんは人と顔を合わせてコミュニケーションする仕事を長年やっていることもあり、対面での会話を得意としています。又、SNS世代でないこともあって、文字でのコミュニケーションでは何かを取りこぼしてしまいそうな気がして、大切な話はなるべく面と向かってしたいと考えています。
これは、「自分の伝えたいことが伝わらない」という意味だけでなく「相手の考えていることが伝わらない」という意味も含みます。
「太一が忙しいので自分が悠太と沙季両方の三者面談に行こうと思っている」「学校では二人はどんなふうに接しているの?」という投げかけに対しての反応を正しく見るには、亜季子さんにとっては、文字では足りなかった。沙季の声のトーンや表情などを聞いて、その上で、さてどうしようかと考えたかったのでしょう。
「うーん……」と考える亜季子さん、視線の動き方や声の演技も合わさって、感情が表現されていてすごいなと思いました。

ところでこの部分、沙季と亜季子さんの母娘らしさと、亜季子さんの経験豊富さが対比できていて、自分としては好きなやり取りだったりします。ここは原作小説では沙季視点で描かれるシーンでして、沙季は「学校では悠太くんとどう?」と訊かれたとき内心ドキッとしたものの「表情には出てないはず。私はポーカーフェイス得意だから大丈夫」と考えています。ですがその後、悠太が帰宅した際に、亜季子さんがそれまで寂しそうに「母親として認められてない気がして」と語っていた様子をまるで感じさせない、本物のポーカーフェイスで「悠太と沙季、別の日に三者面談を設定すればいい」と提案してみせていまして。沙季は母親の本物のポーカーフェイスに圧倒されているのです。
又、TVアニメになって、個人的にちょっと面白いなと思ったところが、この直後の……沙季が、出かける亜季子さんに続いてバイトに行くシーンでして。
以下、原作小説の該当部分を引用します。

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 なんでお母さんは最初に私に言ったように同じ日にしたいって言わなかったんだろう。
 混乱していた。
 いま、ここにいたらだめだ。混乱したまま、浅村くんを頼ってしまう。ポーカーフェイスが保てなくなりそうだった。
 私はとっさに自分のスポーツバッグを掴む。
「あれ? 綾瀬さんも?」
 振り返って私を見た浅村くんが言った。
「そろそろ、バイトの時間だから」
「そうか。……行ってらっしゃい」
「ん。行ってきます、兄さん」
 私の受け答えはもう自動的だ。習慣のように呼び続けてきたおかげで、意識しないでもするりと言葉が喉を通り抜けてくれる。

※引用:『義妹生活』4巻 50-51ページ
——————————————————

沙季の視点、沙季の自己認識では「自動的に返事をしている」になっているのですが、TVアニメでは明らかに「行ってきます、兄さん」までに不自然な間が空いています。
沙季の自己認識と客観的に見たときのアウトプットにズレがあるというのが、すごく面白く、魅力的だなと感じました。

・夜帯の仕事の大変さ
悠太と沙季は亜季子さんが2日に渡って学校に来るのは大変なんじゃないかと心配しています。これは夜勤の仕事をしている家族がいたり、自分自身が夜勤の仕事をしていないとピンとこないかもしれませんが……経験のある方は、なんとなくわかってくれるんじゃないでしょうか。
生活リズムが一定なら問題ないことも多いのですが、生活リズムが狂ったり、朝の出勤と夜の出勤が交互に来たりすると、一気に体調を崩したりしてしまいます。
そういった、生活習慣を不安定にすることによる体調への悪影響を悠太と沙季は心配しています。特に沙季は、実際にそういう働き方をして体を壊した姿も見たことがあり、心配していた……ということです。

・浅村くんの料理スキル向上
同居生活が始まってからしばらく経ち、悠太の料理スキルも向上しています。
ここ最近はバイトのシフトがかぶっていないため、悠太がバイトの日は沙季が夕飯の支度を、沙季がバイトの日は悠太が夕飯の支度をしています。
作り置いておいて、いっしょに夕飯を食べない日も多かったのですが、この日はお互いに話がしたかったのもあって、久しぶりにいっしょに食べようという流れになりました。

・見方によっては理想的な関係
義妹として一線を引いた沙季ですが、それは関係の断絶を意味しません。恋仲になるわけにいかないから距離を置くというわけではなく、あくまでも家族として、兄妹として仲良くなることこそが求められている。そういうふうに律しながら二人で洗い物をする姿は、悲しくもあり、それもまたひとつの幸せのようでもあり……なんとも言葉にしがたい感覚にさせられます。悠太が「これで満足するべきなんだ」と言っているように、見方によってはこれこそが最も理想的な関係とも呼べるのではないか? と思ってしまいます。

・真綾グループの勉強会
彼らの通う水星高校はかなりの進学校で、比較的チャラい側のグループでも普通に勉強してます。ですので、勉強会が提案されたところでべつに冷めた空気にもなりません。どうせやること、を、ちょっとサボりながら皆でやるだけ、です。
ところで。
この人数のクラスメイトを「おいでにゃ~」とあっさり誘った奈良坂真綾なわけですが。真綾の家は、実はめちゃくちゃ金持ちです。その収入は両親が両方とも多忙を極める仕事をしているからこそのものなので、たくさんいる弟たちの面倒を見るのは真綾の役目で、そのおかげで彼女は箱入りお嬢様という感じではなくちょっと苦労人っぽい気質も持ち合わせることになりました。ただまあ、本当に家は広い。かなり広い。すんんんんごく良いマンションに住んでます。

・藤波サマーセール
サマー(夏)にセール(帆)で藤波夏帆です。
さて、唐突に登場したこの妙な雰囲気をまとう女の子。一見すると地味な印象、おとなしそうに見える子なのですが、ほぼ初対面の人間に対して妙なユーモアをまじえてきたり、よーーーく見ると耳にピアス穴が残っていたり、一筋縄ではいかない印象があります。
TVアニメでは大きくカットされているのですが、原作小説では、悠太は丸のアドバイスもあり、沙季への想いを拭い去るために交友関係を拡げるよう意識し始めています。
読売先輩ファンには本当に申し訳ないことに、読売先輩とのシミュレーションゴルフデートというイベントも省略となりました。(でもきっと、アニメでも描かれてないだけで、行ってるはずです)
悠太はこれまで読売先輩を恋愛対象という目で見ていませんでしたが、沙季への感情に折り合いをつける意味もあって、あえてそういう視点で、そういう可能性も踏まえていろいろな人と接してみようとし始めました。間違いなく話していて楽しいし、良い人だなと思うし、こういう人は好きだなぁと感じる。……にもかかわらず、やはり沙季に対して抱いた感情とは何かが違う。沙季とはあらゆる部分で正反対な読売先輩に対しては、そういう感覚になったわけですが……ここで、表面上のテンション感が綾瀬沙季と似ている(原作小説でも明確にはそうと書いていませんが)女子と出会うことになりました。
彼女についてはまた後の回で深く掘り下げて語りますので、今回はここまでとしておきます。

・10話全体を通して描かれた「義妹生活」の形
悠太と亜季子さん、沙季と太一も含めた家族4人の形が描かれていました。
しっかりと4人の家族になっていけてる……その幸福感と、恋愛感情に蓋をしている閉塞感――それらが表裏一体で存在している様子が、過剰な意図を装飾せずに、ありのままに描かれているように感じました。
彼らの生活の様子から幸福を感じるのか、閉塞を感じるのか、それは観ている我々の価値観で左右されます。どんなフィルターを通して物事を見ているのか、それによって解釈が変わってくる。現実のひとびとが、同じ出来事を前にしてどのように感じるのかそれぞれ異なるように。
一方向の解釈を付与し、視聴者の印象をコントロールすることもエンタメにおいてはとても重要なことですし、そういったクリエイティブも素晴らしいと思いつつ。『義妹生活』においてはそれが正解じゃないから(魅力の本質がそこじゃないから)、このような描き方をしてくれているのだと思います。

さて、この10話は9話で線引きされた関係性の在り方をしっかりと定義する回だったと思います。新しい縁と、未練。ここでセットアップされたものがどのように広がり、収束していくのか。残り2話、楽しみにお待ちください。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1831693579917631846

【11話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』11話、解説・感想(※長文です)】
11話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(11話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)

尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。
私の解釈が絶対の正解というわけではないので、皆さまも自分なりにこのアニメ作品から受け取ったものを素直に受け取って独自に解釈してもらえればと思います。

では、始めます。

・お節介な真綾
真綾は沙季と悠太のことをかなり気にかけています。沙季が孤立している頃から沙季のことが好きで、最近沙季が周囲に馴染んでいっていることをとても喜んでいます。この変化が悠太によるものであることもなんとなく察しています。
原作小説ではストレートに「二人はお互いに好き同士に見えるんだけどな」と言っていて、核心を突いています。しかし一方で悠太と沙季の関係がプール以降、すこしも変化していない(あるいはむしろ距離が空いている)雰囲気も感じています。
頼られることの多いリーダー気質の彼女は、ある男子生徒から恋愛相談を受けています。フェアな彼女は、その相談を無下にしたいとも思っておらず、可能性があるなら応援したいと思っています。もちろん悠太と沙季が両想いであれば無理にその男子生徒を推すような真似はしませんし、彼の想いを諦めさせてあげるのも優しさです。ただ、彼女は直感で悠太と沙季は両想いだと感じているものの、二人からは否定されているので確証がありません。すべてが自分の思い違いで、二人がただの兄妹だと言うのなら、そちらの男子生徒を応援してあげてもいいと考えています。ですが最後まで、「ほんとかなぁ」としっくりきておらず、モヤモヤうーんうーん唸っているわけですね。
判断基準は明確で、「沙季にとって良いかどうか」です。なので沙季本人の想いが一番大事ですし、その人と付き合うことで沙季が幸せになれそうなら良しという考え。そういう意味では、彼女に相談を持ち掛けてきた男子生徒は「沙季が悠太のことを好きというわけではないなら普通にオススメできる、良い相手」と真綾に評価されているとも言えます。絶対にくっつけたくない、と思えば、相談に乗るかどうかを迷う必要すらないので。
その男子生徒が誰なのかはすでにここまでの話でヒントが出ているので、視聴者の皆さまもわかっていることと思います。
「なら別の子応援してもいい?」の絶妙なイントネーションは、鈴木愛唯さんの演技が光る部分です。あえて明確な意思が悟れないような、ふっとつぶやいただけの言葉。問いかけのようでいて問いかけでもない感じ。ふだん華やかできゃぴきゃぴしてる真綾が見せるアンニュイな雰囲気に思わずドキリとしてしまいますね。

・悠太と亜季子さんとの会話。亜季子さんと沙季の違い
学校で合流し、廊下を歩きながらの悠太と亜季子さんの会話。ユーモラスな会話の中で、悠太はさまざまなことを考えています。
「下心の有無を正確に読み切れるものですか?」
「もちろん」
「言い切りますね」
原作小説ではこのやりとりのときに悠太は、沙季とは全然違うな、と感じています。
どう考えても証明不可能なこと、実現不可能なことを簡単にできると言い切る。いいかげんな言動なのに、無責任さをまるで感じさせない、むしろ亜季子さんなら本当にできるんじゃないかとさえ思えてしまう。できない約束はしない、誠実であろうとする綾瀬沙季とは真逆のスタンスなんだと悠太は驚きました。
原作小説にもない、綾瀬亜季子という人間についての掘り下げた解説をします。
彼女は、言葉――もっと言うと、単語や文章そのものだけでコミュニケーションをしないタイプの人間です。
どういうことか。コミュニケーションとは情報伝達、感情伝達を目的として行うものだと思うのですが、実は言葉だけでこの伝達を正確に行うのは難しいです。あたりまえと言えばあたりまえの話なんですけどね。
たとえば「絶対に許さねえぞ!」という言葉があったとして、本気で憎い相手にぶつける憎悪の言葉なのか、仲のいい相手とじゃれあっているときの言葉なのか、文字だけでは確定ができません。
「あなたのこと、大好きです♪」みたいな言葉もそうですね。本気で好きなのか、からかっているだけなのか、馬鹿にしているのか、文字だけでは確定できません。
表情、しぐさ、声、イントネーション――全体的な雰囲気と合わせて、情報を受け取ります。
人を不快にさせるようなことは言っていないはずなのに、なぜか嫌がられてしまう、という時は、この総合的な雰囲気で、自分の意図と異なる伝達の仕方をしている可能性があるわけで。これはコミュニケーションの難しさでもありますね。
会話の内容とか言葉そのものではなく、綾瀬亜季子という人間は、彼女が醸す雰囲気全体で会話をしています。それでいて、彼女は家と外で態度を変えていません。これが彼女の自然体であり、この自然体が、悠太を安堵させました。
原作小説では、悠太はここで実母と亜季子さんを比較しています。実母は家での態度と、外での態度を極端に変えるタイプの人間でした。外面、体面を非常に重視する人間でした。悠太はその変化に気持ち悪さを感じていたりもしました。もちろん実母はただ悪なわけではなく、彼女のそれもコミュニケーションの在り方のひとつであり、家庭内で辛辣な態度が増えていたのにも、そこに至るまでの流れがあります。ですが当時まだ子どもだった悠太、そしてまだ成熟しきっているわけではない現在の悠太からすれば、亜季子さんの方に安心感を覚えるのも致し方ないことなのかと思います。

・無神経な先生
再婚の事情も知っているだろうに、どうしてこの先生は「これまでのお母さんの教育」だなんて、迂闊な発言をしてしまったのか。まあ、これはテンプレ文をそのままさらっと言っちゃった感じで、特に何も考えていなかった、というのが答えですね。原作小説だと、言いかけて「あっ」と気づいていましたが、アニメでは先生の印象をそこまでフォローしてあげる必要もなかろうということで言い切っちゃったのかなと思います(笑)
でも逆にアニメではアニメならではの伏線がありまして。夏休み入りのHRを覚えていますでしょうか? すんごい適当じゃありませんでした? 「えー、あー、解散!」みたいな感じで、いい加減に切り上げていたのです。
担任教師のいい加減さがすでに表現されており、そのおかげで、ここで迂闊なひと言を漏らしちゃうことにも納得感があるなぁと思いました。

・工藤英葉准教授
初登場、工藤准教授です。
彼女は読売栞の所属するゼミの先生で、倫理学を特に専門としています。
倫理学は哲学の一分野で、学部の立て方は大学によって異なる場合もあると思いますが、文学部に含むこともあるようです。読売先輩は文学部でしょうし(さりげなく初出し情報)、その流れで哲学に興味を持ち、工藤先生に出会ったのかなと思います。
後の巻で明らかになりますが、工藤准教授はずーっと哲学や倫理学をやっていたわけではありません。月ノ宮女子の出身でもありません。別の大学で社会学を専攻していましたが、興味が移って月ノ宮女子の哲学・倫理学に行きました。
「人間って、おもしろいな」が彼女の根幹にある感覚ですね。
ところで小沼音響監督が藤波夏帆のことを「天使」と表現しながら声優さんにディレクションしたらしいのですが、意図的なのか偶然なのか、この工藤英葉を私は明確に「悪魔」と位置づけて登場させています。もちろん「悪魔」だからといって、悪いやつ、という意味ではありません。悪魔はいたずらに、利己的に、人間の心をゆさぶり、ひっかき回す。でも人間の望みを叶える存在でもあるわけです。彼女はべつに親切で沙季の相談に乗っているのではなく、「特殊なケース」であり「観測していておもしろい」から接触してきました。彼女にどんな言葉を与えたら、どういう行動を起こすのか。それを楽しんでいます。でも、それくらいいい加減な人じゃないと沙季の背中を押せなかったとも思うんです。真綾でもそれは無理だった。沙季は繊細で、すぐ壊れてしまいそうで、何でも真面目に捉えてしまう。沙季のことを思いやればこそ、無理に沙季の背中を押そうとは思いにくい。沙季に対しての思いやりなんてなく、利己的な興味関心だけで答えを授けて背中を押してくれる存在だからこそ沙季に天啓を与えられたのです。
悠太のもとに天使、沙季のもとに悪魔が働きかけている構図、ちょっとおもしろいですね。
ところでこのハリネズミのパペットはアニメオリジナルの存在です。
中がやわらかくて、外はトゲトゲ。めちゃくちゃわかりやすいですが、もちろん沙季の比喩ですね。なんでこんなものが研究室にあるのかはともかくとして(笑)
ハリネズミの効果はもうひとつありまして、実はTVアニメでの沙季と工藤准教授とのやり取りはかなりシンプルにまとめられています。原作小説では、工藤准教授のズレた感性やまぜっかえすような意地の悪い会話が結構な長尺で存在し、その会話の流れで、沙季がたびたびムッとしていて、その末に「私、あなたのことあまり好きじゃありません」に繋がります。が、TVアニメではさすがにそこまで長尺の会話はやれない。そんな中、ハリネズミの声真似(?)をしながら会話を始めるという、おちょくった導入にすることで、短い時間で沙季がムッとするだけの根拠を示すことに成功しています。
些細な部分ではありますが、こういう工夫もまたTVアニメ「義妹生活」の職人技だなと思います。
尚、登場時に白衣っぽいものを着ていますが、文系の先生なので本来不要な白衣です。
なぜ白衣を着ているのかは原作小説には記述しています。工藤准教授はさっきまで、そのへんの野外で寝っ転がって思考(なのかお昼寝なのかよくわからない何か)をしていました。その際にゼミの学生たちから「スーツに葉っぱつけて体験授業をやる気ですか」と怒られ、葉っぱよけにとどこかにあった白衣を羽織らされたのです。TVアニメでも、よく見ると白衣の背中に葉っぱがついているのがわかると思います(笑)

・工藤先生による綾瀬沙季プロファイリング
工藤准教授の口でつぎつぎと紐解かれていく綾瀬沙季という人物像。これは1話からいままでを通して丁寧に描写されてきた綾瀬沙季の答え合わせでもあります。
三者面談でも担任教師に「最初の頃はよくないウワサを聞いていたので心配していた」と言われたばかりですが、沙季は当初、渋谷で遊びまわっていて、よくない行為をしている不良生徒なのではないかと周囲に疑われていました。この噂に対して沙季は否定してこなかったわけですが、それは単に「いちいち否定するの面倒だし、言いたいやつには勝手に言わせておけばいい」のスタンスだったからで、けっしてそう思われたくてやってきたわけではありません。外見の魅力も、内面の魅力も、極限まで高めたい。自分が自分で納得できる状態に自分を保ちたい。それが綾瀬沙季の武装でした。
しかしそういうタイプの人間を、工藤先生は長い人生のなかで何度も見ており、その本質が「愛情や承認に飢えている人間」だと見抜き、実は簡単になついてしまうのだとからかうように指摘します。コミカライズ版ではここの「なつき沙季ちゃん」が可愛すぎるので、見たことのない視聴者の皆様は是非コミカライズ版も読んでみてください。飛びますよ。
TVアニメでのこのあたりの沙季と工藤先生の会話は、悪魔にひっかき回される沙季のおもしろいところが詰まっています。会話の最初のうちは悠太を「兄です」と言い、恋愛感情を否定していたのに、工藤先生から「勘違いだな」と断言されたら、「そんな」と反論しようとする。恋愛感情を認めないようにしながらも、いざ他人に「違うよ」と言われたら受け入れたくない。相反する感情に引っ張られてる沙季がよく表現されているように思いました。

・藤波夏帆のこと
TVアニメではさらっと語られるだけだった藤波夏帆について、原作小説の記述や裏設定もまじえて紹介していきます。
彼女は昼のあいだ一般的なパート・アルバイトの仕事に従事しています。夕方から夜にかけて定時制高校に通い、夜遅い時間帯に夕飯を食べたあとに街をぶらりとしています。原作小説ではシミュレーションゴルフで練習している姿が描かれるのですが、これは彼女の「現在の家族」の趣味に付き合うための練習であり、深夜帯に活動しているのはそこしか自由な時間がないからであって不良行為をしたいわけではありません。ただ彼女自身、胸を張って清廉潔白だとは言えない事情もあります。それは彼女の過去に由来するのですが、そのあたりは「現在の家族」についてと合わせて、12話の解説で掘り下げて語ろうと思います。
ナンパへの対応に慣れていて、人生経験豊富に見える彼女ですが、年相応の恥じらいを感じさせる一面も。悠太と昼食を食べる際、おにぎりを取ろうとしてやめてフルーツサンドにした理由。その理由を語り、「で、あきらめた」と早口で締める感じ、その後の「またあした」の若干の気まずそうな感じ……すべてにおいて藤波夏帆の等身大のかわいらしさが出ていて、絵も種﨑敦美さんの演技も合わせて素晴らしいなと感じました。

・ごく普通の17歳の兄と妹に少しずつ近づいている
この時点で悠太と沙季はまだ16歳です。12月の誕生日がくれば17歳。
時間の流れを意識したセリフであるがゆえに、まだ16歳なのにあえて17歳と言っているわけですね。
「大人に近づいているんだ」という意味も裏に含んでいるかもしれません。感情を上手に隠して円滑な関係性を構築できる。そういう大人になりつつあることと、兄と妹になりつつあることの2つの意味を含んだモノローグかなと思います。

さて、次回は12話。最終話。二人の関係性がどんな場所にたどり着くのか、ぜひ最後まで見守ってあげてください。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1834230331064680752

【12話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』12話、解説・感想(※長文です)】
12話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」最終回です。(12話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)

ついに最終回……ここまで観てくださった皆様、このしょうもない解説・感想を読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。今週で終わりかぁと思うと寂しい気持ちがありますね。

では、始めます。

・沙季と新庄がコンビニにいた理由
TVアニメでは説明せずにCM明けでさらっと買い出しに来ていましたが、原作小説では何故この二人での買い出しなのかが描かれています。勉強会の途中、女子から「小腹がすいてきた」という話が出て、沙季が率先して買い出しに行ってくるよと申し出ました。全員で行けばいいのではと言う子もいましたが、沙季はこの人数でぞろぞろ行ったらお店に迷惑になるからと言って止めました。そこで残った人は、買ってきたものを取り分けたり、家にあるものを軽く調理したりする役を引き受けることで沙季を買い出しに送り出しました。ここで新庄がすかさず「とはいえこの人数分の食べ物や飲み物を買ってきたら重いだろうからもう一人ぐらいは荷物持ちが必要だよね」と言い、一緒に来ることになりました。

・コンビニ店員の声の出演について
エンディングのテロップで、もしかしたらお気づきの方もいるかもしれませんが……あの、コンビニの店員、声、私なんですよね……。出演、させられてしまったんですよね……。
言い訳させてください。
ガチで!本当に!誓って!私が出しゃばったわけじゃありません。
というかこれ、私もまったく事前に聞かされてなくて。12話のアフレコ当日、いつものように原作者監修のためだけに収録に立ち会っていたのですが……本編がすべて終わって、めでたしめでたしお疲れ様でしたーの空気の中、とつぜん、小沼音響監督が――。

「ミスでモブ役の声優さんを手配し忘れちゃいました! 僕を助けると思って出演して!」

とオファーしてきて……。

「いや、いるじゃん! そこに天﨑さんも! 中島さんも! 皆さんいるじゃん! 兼ね役できますよね!?」

という茶番(笑)を経て、収録ブースに連れて行かれることになりました。
最初はここまでプロの仕事で丁寧に作られている作品世界に素人の分際で出演するのはなぁ……と引け目もありましたが、まあ、邪魔になったとしても目の前にいるの沙季と新庄の組み合わせだしべつにいいか、みたいな(笑)
とはいえ、やるからには全力で取り組もうということで、何故か後ろの方でじーっと見ているキャストの皆さんに台本の持ち方を教わったり、小沼音響監督にマイクに乗せるための声の出し方を教わったり……たった一言のセリフでしたが、頑張りました。
ちなみに1回目の演技に小沼音響監督からダメ出しが入り、2回目でOKテイクとなりました。
最初、声を張ってしっかりマイクに乗せないとと思って「ありがとうございましたー!」と語尾を上げて言っちゃって。「それは居酒屋店員の『ありがとうございました』です」と指摘され、「そうか! 言われてみたら全然違うな」と気づけたり。
脱力感のある、語尾下げの「ありがとうございました」がコンビニ店員だよということで。
まあそのディレクションだけでスマートに行けたかと言うとそんなことはなく。「声を張りながら気だるげって何!? 語尾が下がる言葉をマイクに乗るようにハッキリ言うってどうやんの!?」と戸惑いながらも挑戦し、かろうじてOKをいただきました。
こんなことをもっと高い次元でやり続けてるなんて、声優さんたち、ホントすごいなって思いましたね。
良い経験をさせていただきました。

・新庄圭介について
彼はTVアニメでは最も繊細に扱わなければならない人物だったと思います。
ヒロインに対して横恋慕してくるキャラクターは古今東西の恋愛作品で嫌われがちなポジションですし、男子向け作品においては露骨に「嫌な奴」として描かれてしまう可哀想な立ち位置でもあります。
「義妹生活」では原作小説もTVアニメも「イイやつ」「悪いやつ」みたいな描き方を意図的に避けています。それはなるべく人にレッテルを貼りたくないという悠太や沙季への制作側からのリスペクトでもあり、そのようなわかりやすい描き方はこの作品の目指すべき方向性と違うということでもあります。
「視聴者に対し、人物の印象をある一定の方向に強制的に示唆する」ということを、TVアニメ「義妹生活」は徹底的に避けています。それこそが、現実的か非現実的かという軸ではない、もっと向こう側の「実在感」に繋がると信じているからだと思います。
新庄は「イイやつ」として描いてもいけないし、「ヤなやつ」として描いてもいけない。
横恋慕、みたいな見せ方も必要ない。
ただ彼は彼自身の人生を生きていて、その中で沙季を好きになって、そして告白しただけの同級生の男子です。彼の人生はあくまでも彼の人生。悠太や沙季の関係をどうこうするために告白したわけではないし、フラれたからといってひどいことをしたりもしません。
収録の際も、そのようなディレクションがなされていて、結果的に本当にすばらしい塩梅のフラットさで表現されていたように思いました。

ところでTVアニメではカットされている、原作小説ではあった出来事について。
実はこの新庄君、三者面談で悠太と沙季が兄妹であることを知りました。
プールでの一幕で新庄は悠太と沙季の雰囲気がいいことを何となく察していて、もしかしてもう付き合っているのかも、自分にはチャンスがないのかもと感じていました。……が、三者面談の日に二人が兄妹であることを知り、あの距離の近さ、仲の良さは兄妹関係由来のもので、自分にもチャンスがあるのかもしれないと思い、告白の機会をうかがっていたわけです。

・新庄の告白を沙季が断った理由
新庄はかなりモテます。爽やかなスポーツマンで、オシャレで、女の子にも紳士的で優しいです。工藤准教授が言っていたような「他の魅力的な男子」です。
細やかな気遣いができて、すごく表面的な部分だけを切り取ると悠太と似たような気遣い上手さを備えていて、おまけにスマートという非常にハイスペックな男子。
が、実は原作小説ではこのとき、沙季は新庄と会話しながらも頭の中でずっと悠太を軸に新庄のことを考えていることに気づきます。
たとえば同じ気遣い上手でも悠太とは微妙に違う、と、些細な違いについて考えています。
新庄は細かいところに気づいて、自分の方に重い荷物が来るようにしています。しかしこれは優しいけれど沙季の望む関係性ではありません。沙季は、「ギブ&テイクはギブを多めに」とかつて言っているわけですが、これは相手への気遣いというだけではなく「その方が自分が気楽」という意味を含んでいます。
悠太は無理に自分で負担を引き受けようとはしません。基本的には沙季のやりたいことを、やりたいように尊重して、一歩引いてくれている。その上で、沙季が負荷に耐えられなくなりそうになったとき、あまりにもギブが偏りすぎてしまっているとき――そういうピンポイントなタイミングで、悠太は強く踏み込んで、支えてくれます。それこそが、沙季にとって最も心地好い支えられ方、ということですね。
ゲームにたとえるとわかりやすいかもしれません。「初心者だから大変だよね! 大丈夫、助けてあげるからね!」と、1から10まで助けられてしまったら楽しくない。そこに罠があるかもしれないけど自分の意思で好奇心のまま突っ込んで死んでみる、とか、そういう遊び方のほうが楽しい。ギリギリまで試行錯誤して、それでもどうしても先に進めなくてつらすぎる時だけ教えてほしい。そういう感覚ですね。仮に沙季がゲーム配信をしていたら、指示厨のことはめちゃくちゃ嫌いなのではと思います(笑)
そういうわけで、新庄は優しいし、きっと魅力的なんだろうけど、自分にはしっくりこない……と、沙季はあらためて悠太のことが好きだし、彼を想っているんだと自覚しました。

・藤波夏帆について
藤波夏帆とは何者なのか、どうして出会ったばかりの悠太の背中を押してくれるのか。
実は原作小説の方でもヒントこそちりばめているものの、ハッキリと「こうである」とは説明したことがありません。する気もありません。彼女の裏側を説明しすぎないことも又、『義妹生活』の作風を維持するために必要なことだからです。
ですが、TVアニメをここまで楽しんでくれた皆様、そしてこんな原作者の怪文書を読んでくれている皆様に何の情報もナシではさすがに心が痛むので、いままで語ってこなかった藤波夏帆の裏設定をちょっとだけ開示させていただきます。
説明されずとも滲んでいるとは思うのですが、まず、藤波夏帆は元不良生徒であり家出少女です。中学生の年頃には繁華街の真ん中、あるいは裏側で生き、けっして褒められたものじゃない付き合いもあったし、行動もしてきました。人間の汚いところや欲望といったものと最も近い距離で触れ合ってきたし、自己破壊的な欲求もあって、わざと危険な場所に身を置いていた節もあります。ピアス穴は当時の名残です。両親を失い、気に入らない親戚のもとに預けられたことで反抗し、逃げ、一人で生きるのだと自立を誓った人間でもあります。
現在の養い親「おばちゃん」のおかげで現在は更生し、日の当たる道に戻ろうと努力しているところですが……その「おばちゃん」も、言ってしまえば裏社会側に近い存在。グレーゾーンの中でしか生きられない人たちに手を伸ばしているような人物です。
藤波夏帆はもちろん確固たる一人の人間として存在しているのですが、「欠落を埋めてくれる存在が誰もいなかった場合の悠太と沙季」を暗示するような人物でもあります。
悠太と沙季は、人間を信じられなくなるような経験を経て、片方の親を失っています。
一方で藤波夏帆は、両方の親を同時に失った上で、人間を信じられなくなるような経験をしています。悠太と沙季にはもう片方の親が残っていたことと、再婚でお互いと出会ったことで欠落が埋められ、致命的な一歩を踏み出さずに済みました。
ですが藤波夏帆は、一度踏み込んでしまった人物。悠太と沙季にとって、最も望ましくない未来を一度経験している人物とも言えます。もちろん、だからといって彼女がまったくの不幸だというわけではありません。彼女はそこから立ち直り、現在は人並み外れた経験をしてきたことによる達観した視点を持ちながら学業に励めているため、この先はとても良い人生を送れるでしょう。
……さて、そんな人生を送ってきた藤波夏帆。なぜ彼女が悠太に肩入れするのか?
彼女の両親って、どうして親戚一同に結婚を反対されていたんでしょうね。旦那の方か、嫁の方か、どちらかがよほど怪しい出自だったんでしょうか。親戚一同から拒否反応が出てくる何かがあったのは間違いありません。そういえば悠太と藤波夏帆の会話は、沙季と工藤准教授の会話と並行して行われていることが多かったわけですが……このタイミングで倫理の話を掘り下げたのは何故でしょうね。
あとは想像にお任せしますが、とにかく藤波夏帆の両親には、親戚から倫理的に忌避される何かがあって、それゆえに味方をつけられなくて孤立したわけです。彼女が親戚になじられても「仕方ない」で納得しようとしていたのは、それもあるかもしれない。両親にも悪いところがあった、と。でも、やっぱり内心では両親を愛していたし、なじられることには怒りを覚えていた。この境遇は両親が悪いんじゃなくて、両親を受け入れなかった周りが悪いんだと、自分勝手だけどそういうふうに素直に感じることがようやくできてきた。
だからこそ、「周囲から倫理を盾に忌避される関係性」というものに対し、自分は味方のスタンスで在りたいと考えているのです。

・どうしたって期待してしまう
悠太や沙季、藤波夏帆の感情がまったく理解できない人は本当に幸せだなぁと思います。
傷つけられた経験の多い人、人を信じたくなくなるような経験をした人は、他人に期待しないことで心を防御する気持ちが理解しやすいと思うんです。
ただ、本当の意味で「期待しない」境地に達するのは本当に難しい。それこそ長い人生経験とか、僧侶が長い修行の果てに到達するような境地です。普通の人は「期待しない」と意識したところで心の奥底ではどうしたって期待してしまう。
上野監督は、この結論をアニメ1クール通してのメッセージに据えて、それを一本の軸としてあらゆるシーンを構築してくれたのだと思いました。

・悠太の告白からの一連の流れ
9話に続く、TVアニメ「義妹生活」で最もお気に入りの場面です。一連のシーンすべてが好きだし、ドキドキしたし、ホッとしたし、涙が出てしまいました。
原作小説とは流れこそほぼ同じですが、ところどころTVアニメ独自の表現になっています。
悠太の感情は恋愛感情じゃなくて妹に対してのものだよねと沙季が言い返した後、悠太が反論の言葉をなくしてしまったところ。ここは原作小説ではその後、食事の会話がなくなり学校に行く時間となって、先に家から出ようとした沙季を玄関まで追いかけていき――そこで沙季が「嫌じゃないから」とつぶやき、悠太の手を引き自分の部屋に連れ込みます。
しかしTVアニメでの沙季は、「妹に対する感情がすこし強く出ているだけという可能性は?」と言ってから、悠太が黙ってしまうのを見て、「ごめん」と言い捨てて自分の部屋に逃げ込んでしまいます。
これによって、TVアニメでは、悠太にはもう1アクション沙季に対して踏み込まなければならない試練が与えられます。閉ざされたドアに対して、どうアクションするのかという試練が。
ところで皆様、覚えているでしょうか? 私は6話の解説のときに、「この作品において、密室は脳(頭のなか)のメタファーである」と書きました。二人が表面的なすり合わせではなく、深い部分ですり合わせを行なう時は密室であることが多いです。
この12話においては、もちろん沙季の部屋。より沙季にとってパーソナルな空間で行ないます。
それと照らし合わせて考えると――
悠太の告白に対して「逃げる」行動を取って、頭の中に閉じこもり、いろいろと考えを巡らせる沙季。
沙季の心に優しく(あるいは恐る恐る)ノックをし、返ってこない返事に歯を噛み、告白を後悔しそうになる悠太。
ドアが開く直前のこの一連の流れがあることで、いまからお互いに深いところに踏み込み、すり合わせしていくんだということが強調されていました。ここが1クールのクライマックスであることを考えると素晴らしい演出だったのではないでしょうか。

このドアをノックする音もまた凄いんですよね……。悠太がノックして、すこししてから沙季が小さくノックを返すわけなんですが。ここ、ただの音じゃないというか。どちらも一言も言葉を発していないのに、演技してるんです。この繊細な表現、とても好きですし、さりげなくも素晴らしい技術の結晶だと思いました。

TVアニメのオリジナル表現はこの後も続きます。沙季の部屋に引きずり込まれ、抱きしめられて「安心、した?」と言われ、その後、二人がどんな関係に落ち着くべきかを話し合う場面で。沙季が全部を言い切れず、思わず泣いてしまうところ。――ここ、原作小説では泣いていないんですよね。
以前、私は「義妹生活」は悠太と沙季が実在すると仮定して、その私小説を私が勝手に書いているだけというイメージで書いていると話したことがあります。又、TVアニメは上野監督がこの二人を観測してアニメにしている、とも。それがそのまま原作小説とTVアニメでの沙季の感情の出し方の違いに表れているのだと思います。
私のフィルターを通して見た沙季は泣いていなかったけれど、上野監督を通して見た沙季は泣いていた。そういうことなのです。
――と、思っていたのですが。後に上野監督に聞いたところによると、上野監督も最初はここで沙季が泣くはずではなかったという話でした。コンテを切っていたら、自然と涙を流していた、と。
「義妹生活」では視聴者の見方や感情を一方向に示唆するような表現は避けてきています。それは原作小説もそうですし、TVアニメでも同じです。だから「最終話だから感動させてやろう」とか「クライマックスなんだから泣かせたほうがいいだろう」とか、そういう意図で流した涙なのであれば、私はきっと違和感を覚えていたでしょう。原作と違うからと言って文句は言わないけれど、「ああ、違うな」と感じるだけで、ここまでTVアニメ版の「義妹生活」にドハマリすることはなかったと思います。
しかしこの沙季の涙はあまりにも自然すぎた。確かに上野監督のフィルターを通して、1話から11話までTVアニメで描かれてきた沙季は、12話のこの場面では泣いているんです。
視聴者をこうしてやる、という意図とか強制的な示唆ではなく、泣くべくして沙季は泣いた。だからこそ、原作小説とは異なる表現だけれども、原作者の私も気持ちよくこの展開を受け入れて感動できたのだと思います。

・「期待する。これから俺は綾瀬さんに期待する。だから綾瀬さんも俺に期待してほしい」
恐る恐る沙季の手を握りながら悠太の発したこの言葉。なんて優しくて、頼もしい言葉か。
ちなみにこのセリフもTVアニメオリジナルです。アニメを1クールで1つの作品としてまとめるためにも必要なセリフの回収なのですが、こちらについてもただアニメの都合でまとめるというだけでなく、なるべく原作小説から汲み上げようとしてくれているのがわかります。
原作小説では藤波夏帆の話を聞いたときに、次のようなことを考えています。
————————–
 人間なんだから、か。
 俺の脳裏をよぎったのは、初めて綾瀬さんと出会ったときの夜の会話だ。
 あのとき綾瀬さんは俺とふたりになったときに開口一番で言ったっけ。
『私はあなたに何も期待しないから、あなたも私に何も期待しないでほしいの』
 あのときの、探るような綾瀬さんの表情を思い出す。綾瀬さんは同居する俺に対してああ言って、そして俺はその言葉を聞いてとても安心した。
 彼女は俺と同類だと思ったからだ。
 聞きようによっては初対面の相手にぶつける言葉としては失礼極まりないと怒られかねない言葉を、それでも探るように敢えてぶつけてきたあのときの彼女の真意は……。
 俺はひょっとして見えてなかったんじゃないだろうか。
 彼女はほんとうに何も期待していなかったのか。
 そしてその言葉は自分自身に返ってくる。
 俺は、親父が結婚するだけだと思っていた。思おうとしていたのだけれど、本当に何も期待していなかったのか?

※引用:『義妹生活』4巻 222-223ページ
————————–
原作小説でも、悠太が告白すること決めた理由として、沙季との最初の約束のことを思い出した、というものがあります。
期待する=相手が自分の望むような愛情を向けてくれることを期待する。感情を押しつけても許されると期待する。最初は互いにそれをしないようにと約束することで一線を引き、期待を裏切られることによって傷つく可能性を避けようとしましたが……今の彼らは、互いに期待したくなっている。だから期待するのをアリとしていこう、と提案する……というのが原作小説における心の流れなわけです。
セリフとして「俺は綾瀬さんに期待するから、綾瀬さんも俺のことを期待してほしい」とは書きませんでしたが、感情としては原作小説の悠太はTVアニメと同じようなことを考えて一歩を踏み込んでいるとも言えるわけですね。
これもまた、TVアニメ「義妹生活」のクライマックスが、けっしてただのアニオリではないと感じる部分です。

・「  と  」
この空白のサブタイトルには視聴者の皆様もだいぶざわついていたようです。どういうことなのか、何かあてはまるのか否か、と皆様がさまざまな予想をしているのを楽しく拝見させていただきました。
12話を観た方ならすでにお察しのことと思いますが、こちらの正解は「tomorrow and tomorrow」でもあるし表記そのままの「  と  」でもあります。
悠太と沙季が12話を通してたどり着いた結論は――「恋人でもなく、兄妹でもない関係」あるいは「恋人であり、兄妹でもある関係」。あえて言うなら特別に仲のいい義理の兄妹として。ラベリングできない関係を結ぼう――というものでした。この空白は、名前のつけられない関係を象徴したものだと私は理解しています。
その上で最後の最後に埋められた言葉。明日と明日。来る日も来る日も。これは上野監督からの、悠太と沙季に向けた、いつまでも二人の明日が交わったまま続きますようにという願いのメッセージなのかと思います。
二人の生活がこれからも続いていくんだと、そうあってほしいと、そういう思いがあってこその文字なのかな、と。

・1話~12話ひとつなぎの物語
最後に。TVアニメ「義妹生活」は1話~12話までの1クールまとめて1本の作品です。私は原作者として放送前に、事前に共有されるフィルム(シロバコ)で12話ぶんをまとめて視聴しました。そのおかげで、上野監督やアニメ制作陣がこめたクリエイティブを、余さず、最も理想的な形で享受することができました。
1話から3話にかけてミステリアスでどこか危うさを帯びた綾瀬沙季と出会い、4話から6話にかけて悠太のこれまでの関係と新しい関係が混ざり合っていき大きな変化の兆しを感じ、7話から9話にかけての高まっていく感情に心乱され、1話から8話にかけてじわじわと沙季の幼い側面が刷り込まれていった末に9話で爆発し、10話と11話で悠太と沙季が新しい関係を模索したり自分の感情が本物かどうかを向き合ったりし、12話ですべてが結実する。……その一連の流れすべてがきれいに繋がって、最高の視聴体験となりました。
実はシロバコで12話を見終わった直後、あまりにも心が思春期に戻り、感動してしまい、担当編集者に「これ、気持ち悪かったら送らないでもらってもいいんですけど。大丈夫そうならアニメ側に送ってください」と言って、アニメ制作陣に向けて長文の感想と感謝の言葉を送ってもらいました。放送期間中に長文解説・感想をやったモチベーションも、そのときの感情の勢いの延長線上に湧いてきたものです。
TV放送はもちろんのこと、気に入ってくれた方は是非、まとめて視聴してみてほしいです。
又、この素敵な映像作品をさまざまな形で手元に置いて、大切な人生の思い出のひとつにしてくれたら、原作者として、又、一人のアニメ「義妹生活」ファンとして、うれしく思います。

TVアニメは今回で最終回となりましたが、原作小説やコミカライズ版、YouTubeはまだ続きます。悠太と沙季のこの先の人生が気になる、二人の存在が恋しい、そんな方は是非、他の媒体の「義妹生活」にも手を伸ばしてくださいませ。

ここまで長々と私の長文解説・感想を読んでくれた人たち、ありがとうございました。来週からもうないのかぁと思うと寂しいですが……というか、この文章を書く手が、惜しくて、なかなか止まりませんが……このままだと永遠に記事が終わらなくなってしまうのでここまでにしておきます。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1836766882684355034

【最後に】

はい、とりあえず私は三河ごーすと先生をフォローして原作を購入しました。

この解説まとめが『義妹生活にハマるキッカケの一つ』になると嬉しいです。

 

二日後くらいにアニメ『義妹生活』のレビュー記事を投稿予定です。

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