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アニメ『義妹生活』 原作者・三河ごーすと先生の解説まとめ

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アニメ『義妹生活』がとても面白かったので、原作者・三河ごーすと先生の解説をまとめます。

解説に関しては賛否あったようですが、個人的にアニメが50倍くらい面白くなったのでオススメします。

ちなみに『アニメを視聴する→解説を読む→もう一度アニメを視聴する』が一番美味しい頂き方なのかなと思います。

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【1話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』1話、解説・感想(※長文です)】
1話をご覧いただいた皆様、ありがとうございました。
放送直後ですが、視聴者さま向けに、原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていこうと思います。(1話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)

まず、原作(小説版)を知らずにアニメを観た人は、「あれ?思ってたのと違う」と思われたのではないでしょうか。義妹と生活するということで、ドタバタしたラブコメのようなものを想像されていた方が多いのではないかと思います。
ですがこの作品はいわゆるラブコメではありません。キャラクターの配置や基礎設定など、要素を箇条書きにしてしまえば平均的なラブコメなのですが、べつにラブを見せたいわけでも、コメを見せたいわけでもなくて、ただそこにある彼らの生活を浮かび上がらせていくことを目指した作品です。とはいえ三次元(現実)に寄せすぎて二次元の魅力が損なわれるのも望んでおらず、二次元の魅力が損なわれないギリギリまで三次元(現実)的な表現を模索した作品となっています。類似ジャンルは「ヒューマンドラマ」等になるかもしれませんが、それよりは恋愛感情にフォーカスしているので、ピッタリなジャンル表現が既存のものに見当たらず、私と担当編集者の間で、「恋愛生活小説」と銘打って連載していくことを決めました。
「架空の人物による私小説」「実在人物の日記のように感じる読書体験」といったこと、それ自体が『義妹生活』の特異性であり、価値です。物語の展開だけを箇条書きした文章を読んだ初見の人は、何故この作品を支持している読者が多いのか、理解できないかもしれません。それは、箇条書きで表せるような物語展開ではなく、細かい生活の所作、細部の表現や読書体験をまるごと含めた読み心地に魅力のコアを置いているからなのです。

……と、ここまで原作の意図を書いてきましたが、そう、このポストはアニメの解説と感想です。
なに関係ないことべらべら喋ってるんだと怒られるかもしれませんが、アニメの解説をする上でも必要なことだったのです。ご容赦ください。

さて、そんな意図で書いてきた原作ですので、映像作品にするのはめちゃくちゃ難しいだろうなと思っていました。実際、義妹生活ラジオ(第3回)にて、上野監督も「難しいと感じていた」と仰っていて、「ですよね!ごめんなさい!」と50%くらい申し訳ない気持ちになりました。ですが残りの50%で、「これを難しいと感じてくれる人に監督をしていただけて本当によかった」とも思いました。難しさを感じるということは、私が『義妹生活』で大切にしていることを完璧に読み取っていた証拠でもあるわけです。物語で起こる出来事を箇条書きにしてしまえば、何のことはないただのラブコメですから、そう割り切って、「あんまり面白くないラブコメ」と処理して作ってしまうことも可能なわけです。でも、そうはせず、魅力のコアを掬い取った上で正面から難しさと向き合っていただけた。本当にありがたいことだと思っています。

次に細かい部分を解説していきます。

・悠太と沙季のキャラクター性、出会いについて
観ていただいた方はすでに感じていると思いますが、この二人、「すんっっっっっごい、理屈っぽくて、めんどくさい奴ら」です。人間関係においては特にそう。二人とも両親の関係の破綻を間近で目撃、経験しています。片方が相手を思いやってしたことを、もう片方が悪意として捉えているとか、察せるはずのない本音を察せられない相手のことを責める姿とか、そういった「対立し、すれ違う二人の人間の間」に中立の立場で立つことが多かった二人は人間関係のままならなさを肌身で実感しています。相手に一方的な期待をかけ、勝手に傷つき、罵声を浴びせる……そういった人間の、人間関係における「偏り」に「醜さ」を感じているのが悠太と沙季という人間なのです。二人のことを記号的なキャラクター属性にあてはめたら「クール」と表現できるかもしれませんが、実は「クール」と表現してしまうと、二人への解釈はすこしズレてしまいます。彼らは基本的に低体温的で、あまり声を荒らげたりしません。ですが、感情の起伏自体が乏しいわけではないし、マイペースで気遣いができないというわけでもない。そのため、初対面の人間に対して友好的な態度を試みますし、それは出会いの場面で交わされた二人の会話にも表れています。ユーモアに熱がない、ということを同種の人間である沙季には看破されてしまいましたが、基本的にはこの適度な距離感の、踏み込みすぎず、拒絶もしすぎず、おちゃらけすぎず、お堅すぎずのコミュニケーションで悠太は溶け込むように社会の中で生きてきました。これは、他人に期待しないが故の、敵を作りにくいコミュニケーションです。逆に沙季の方は他人に期待しない感性こそ同じものの、人間関係の機微を求める相手を最初から拒絶し孤立を選ぶタイプのコミュニケーションをしてきました。ですが、そのコミュニケーションは、彼女一人の問題で完結する場合にのみやります。彼女は自分は一人でいい、他のすべての人間に嫌われてもいいと割り切る感性を持つ一方で、母親である亜季子を誰よりも大事にしていて、亜季子の損になることをしたくないと考えています。そのため、亜季子が愛すると決めた男性である太一や、これから家族になる悠太に対しては自分もなるべく友好的に振る舞おうとしてきます。最初の顔合わせのうちから学校では見せないような笑顔をあえて作っているのもそのためです。高校卒業までの残り2年弱、表面的には友好的に繕うことで亜季子の居場所が確保されたら、その後、自分はそっと距離を置いて一人暮らしをすることで穏便に離れよう、とぼんやり考えています。……男家族に期待したくない、だけど相手を拒絶して傷つけたいわけでもない、そういった白とも黒とも言えないような微妙な感情を持ちながら家族になったわけです。
二人きりになったとき、沙季がクールな一面をあえて悠太にだけ見せてきたのは、自分と似たものを感じたから――自分と同じスタンスでこれからの家族生活を送れる可能性を感じて、ひとつの賭けとして、すこしだけ自分の「裏」を見せ、そして悠太が予想通りの人物だったので「契約」に至りました。

・アニメオリジナル要素について
原作小説を読んでいる人は気づいていると思いますが、このアニメ、実はアニメオリジナルの描写がかなり多く、セリフやシーンの省略(カット)も非常に多いです。引っ越してきた沙季が壁に貼られたシールを発見し、指でなぞったり。帰宅した悠太が、明かりのついているリビングを見て、何かを思ったり。カップみそ汁の存在を強調し、過去の食事風景をフラッシュバックしたり。これらはすべてアニメオリジナルです。が、一方で、原作小説で記述されていなかっただけで、この二人の物語においては確かに存在したであろうシーンだと私は感じています。悠太と沙季がもしも実在したと仮定した場合に、原作小説よりも忠実に原作(二人の生活)を再現してくれた――小説を書くときに私が書き忘れてしまったことを、上野監督やスタッフの皆さんがきちんと見落とさずに拾ってくれた――そんな印象を持っています。

・作画、演出、美術、編集について
私はもともと実写映画はよく観るのですが、大人になってからTVアニメを観る機会がかなり減っていて、実はアニメに詳しくありません。なのでアニメ特有の表現について多くを語れるだけの教養は持ち合わせていませんが、素人なりに思ったことをお話しすると、『義妹生活』の作品テーマをアニメーションで実現する上で取り得るありとあらゆる技法が駆使されているように思えてなりませんでした。
そこに生きていれば存在するであろう音、息遣い、人間らしい日常の動き(日常芝居、と呼ぶのでしょうか)、声優さんたちによる自然な演技、すべてが画面の中で自然と混ざり合っていました。これって、違和感がないのでスッと自然に流してしまいそうになるんですが、実は違和感がないこと自体、もの凄く難しいことなんじゃないかと思っています。
悠太と太一の「再婚することにしたんだ」の会話のシーン(インスタントな朝食を作っているシーン)、ドリンクバーのシーン等、視聴者の方にもそういった細部の動きに注目してもらいたいなと思いました。
又、山手線をはじめ、確かな実在感で描かれる渋谷の街。背景(美術)もどれも素晴らしくて、美しくて。人物の実在感を目指している以上、悠太や沙季が生きている世界そのものの実在感も高く在ることが求められる中で、ハードルを軽々と飛び越えていきました。

ただ、ここで思うのは、こういった1つ1つの「点」が魅力的なのは言うまでもありませんが、でもそれは一番大事なことじゃないのではないか、ということです。
作画や美術や音楽といった、一部分を切り取って美しいものというのも確かに素敵ですし、素晴らしいものではあると思うのですが……何よりも、すべての要素が合わさって、調和が取れて、時間の流れも含めて「1つの作品」として完成されていることにこそ注目してほしい――「点」ではなく「線」あるいは「面」で観てほしい作品だなと、強く感じました。

原作小説の時点で、キャラクターの印象的なセリフ、可愛いしぐさや表情、主人公のカッコいいセリフ、わかりやすい見せ場、といった「点」を重視しない作品でした。地味ではあるけれど細部にこだわるように小さな「点」を重ねていって、「線」あるいは「面」として作品全体をふんわり眺めると心地好くて好きになれる――そういった作品を目指してきました。そして実際に、その感性に共感してくれる大勢の読者さんには好きになってもらえて、応援してもらえました。
TVアニメ『義妹生活』も、同じような性質を持っている作品だと思います。じっくりと世界に浸って、ゆっくりと彼らを見守って、細かいところに愛情を感じる……そういった体験を求めている人に1人でも多く届けばいいな、と。

……というわけで、原作者による1話の解説・感想ポストでした!
ワードの文字数チェック機能で調べたら4000文字を越えてたんですが……長すぎる……。ろくに推敲してない4000文字以上、読んでくれた人は本当にありがとう。来週もよろしくお願いいたします。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1808863069390680504

【2話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』2話、解説・感想(※長文です)】
2話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
先週に続いて、視聴者さま向けに、原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていこうと思います。(2話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)
尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説でしかないので正解とは限らない(監督には別の意図があるかもしれない)ですし、視聴者の皆様の楽しみ方を定義するようなものではありません。1つのサブコンテンツとして楽しんでくださいませ。
又、こちらはあくまでも解説を読みたい人向けのポストです。作品を自ら読み解きたい方は、こちらを読まずに作品だけで楽しんでもらえればと思います。

では、行きます。
2話をすでに観ていただいた方の中には、もしかしたら「不親切な内容だな」と感じられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。ネガティブに捉えなかったとしても、「いったい何が起きているんだ!?」と理解が難しく戸惑われたのではと思います。
何故そのようになっているのか。それを理解するには、まずは原作の意図を知ってもらえるとわかりやすいと思います。

先週の長文解説ポストでも書いた通り、「義妹生活」は義理の妹と生活することになるというラブコメの鉄板構造を極限まで現実的に、緻密に、実在するかのように描いていくことそのものに魅力のコアを置いています。
そして、その実在感のある表現を模索していく過程で、1つ、ラブコメでは重視することをあえてやらずにいます。それは「ヒロインの感情をハッキリさせること」です。私も、ラブコメを書く際は、このシーンでは照れている、怒っている、悲しんでいる、ということをハッキリと読者が認識できるように書くことが多いです。多少感情がわかりにくい描写をするときも、なるべく早くその感情や行動の理由が明かされるように構成します。
しかし「義妹生活」ではあえて沙季が何を考えているのか最後までハッキリとはわからないように書いています。何故、そうしているのか? それは「義妹生活」が架空の人物の私小説であり、実在感を大事にしていることに起因しています。
小説版の方は基本的に浅村悠太の一人称視点で進むのですが、ただテクニックとして一人称を採用したのではなく、「浅村悠太という人物が実在していた場合、どういう思考の流れが、どういう描写が、最もリアルたり得るか」を徹底的に突き詰めた結果に一人称を選びました。たとえ一人称でも、他の人物の感情が読者に明快に伝わるように書くことは可能です。実際、他の作品ではそういう書き方をしていることもあります。ですが、「義妹生活」においてはそういうわけにいきませんでした。「自分の視点からでは、相手が本当に考えていることなんてわからない」ということ自体が、「義妹生活」で描くべき命題の1つであり、それゆえに悠太の目から(そして、読者の目からも)沙季が何を考えているのかわからないように書く必要があったのです。
もちろん、それだけでは1冊の小説になりませんから、1巻の最後で答え合わせのパートを用意しています。悠太は知らない沙季の本音を、読者にだけサービスで見せるような形です。何故、沙季はあのときあんなことを言ったのか、何故、沙季はあんなことをしたのか……悠太の視点からは不明だったことが、あるギミックを通して語られます。一種のミステリーの答え合わせのように。この人間関係における謎や1つの事象を異なる人間から見たら別の解釈になるといった、現実世界ではごくあたりまえのことを、とにかく緻密に積み上げていくことが原作小説の肝で、アニメにおいても、その体験・感覚をまるごと映像作品に変換していただいたと感じています。

さて、その上でアニメ2話の表現について。要素ごとに解説・感想を述べていきます。

・冒頭、目覚めのシーン~悠太と沙季の会話
セリフもなく、非常にさりげない描き方ではあるのですが、ここではいくつかの情報が提示されています。
「悠太は目覚まし通りに起きている(ずぼらではなく、規則正しい生活をしている方である)」
「その上で、彼が目覚めたときにはすでに沙季は起きていて、活動している気配がある」
「悠太は身支度を整えてから(油断した姿ではない状態で)沙季の前に出ている。沙季も、寝起きの状態という最も無防備な姿を見せていない」
といった情報です。
これによって、二人がまだお互いにプライベートを見せる相手とは思っておらず、「ただ同じ家で暮らしているだけの他人」として線引きしていることがわかります。

・学校でのシーン
悠太は渡り廊下から沙季を見下ろしたり、球技大会に向けた体育の時間中に沙季を気にかけたりしていますが……丸に言われるまで彼女の評判を知らなかったことが同時に明かされます。でも、沙季は突然出現したわけじゃないし、悪い評判はずっとあったわけですが、何故、彼は沙季について何も知らなかったのでしょうか。
答えは、他人に(特に女子生徒に)関心を持っていなかったからです。丸以外にこれといった友達もおらず、作る気もなく、さりとて孤高でいるつもりもなく。話しかけられれば表面上は普通に接するのですが、名前を覚えている相手も少ないです。奈良坂真綾のことだけは、あまりにも目立つ有名人なので存在は認知していますが、それ以外の生徒についてはほぼ認知していません。ゆえに綾瀬沙季という生徒についても、これまでも近い距離にいたものの特に認知しておらず、同居生活を始めてお互いのことを知ったがゆえに突然視界に入るようになったわけですね。

・高額バイトと武装モードの話
沙季は母・亜季子を罵る実父の言葉に強い反発を覚えています。食卓のシーンで、亜季子の学歴についてとやかく言う声があることに「ナンセンスだ」と言った悠太に対して、前のめり気味に「だよね」と同意を示したところに彼女の本心が表れています。尚、ここで沙季は「女性が向けられがちな偏見」についていくつか列挙し、悠太が共感を示していますが、アニメになるにあたって原作から微妙にカットしている会話があります。カットの理由は、尺の都合と、沙季の本心の一端を悠太に開示することに焦点を当てるためです。原作ではこの後に悠太が「男性が向けられがちな偏見」について話し、沙季がそれに共感を示しており、このあたりの価値観のすり合わせが、沙季と悠太が互いを信用し始めるきっかけになっているのです。
ところで2話をすでに視聴している方は、なんとなく綾瀬沙季という人物の「危うさ」にうすうす勘づいているのではないでしょうか。彼女は賢く、美しく、気高く、それでいてフラットで偏らず……といった姿を理想としており、その理想を体現するために全力を尽くしています。しかし理想とは完全なものであって、人間は不完全な存在でありますから、理想を維持するのは非常に困難です。不可能と言っても過言じゃありません。一時的に理想を体現することはできるかもしれませんが……その状態を続けようとすれば、必ずどこかに歪みが生じます。というか、すでにコミュニケーションの一部に歪みが生じています。会話において普通であれば相手から「A」と投げかけられた言葉に対して、「B」と即答で返せば良いところを、『「B」と「C」と「D」と「E」を考慮し、天秤にかけた上で最も公正でより良いであろう回答として「B」を選択する』と遠回りな思考を経て「B」と答える。確かにそれはフラットだし、正しいけれど、脳の処理としてはかなり負担が大きく無駄が多い。賢いようでいて全然賢くないという矛盾を孕んでいます。
又、「サクッと稼げる高額バイト」のようなものに興味を示してしまうのも、彼女の性質のエラー部分。そういうことに手を出すのは短絡的だと言われがちな行為ですが、しかし、彼女の場合、思考に思考を重ねて、自らの理想を体現するための現実的かつ効率的な手段を模索していく過程で流れ着いたのが「サクッと稼げる高額バイト」の必要性でした。噂されるような人間ではないはずなのに、正しいと感じる道を選んでいくことで結果的に噂されるような行為に近づきつつある……というのは皮肉なものです。

・味噌汁を作ってほしい話
「毎日味噌汁を作る」は昔からある鉄板のプロポーズの言葉ですが、これは手作りの味噌汁がいわゆる家庭の象徴、手料理の象徴のようなものだから鉄板になったわけです(たぶん)。悠太は家庭が冷めた状態になってからほとんど手作りの味噌汁を飲ませてもらったことがなく、味もそうですが、何か愛情というか温かさのようなものを無意識に感じ取り、欠落の埋まる感覚に癒やされたのではないかと思います。ちなみに、実母と食卓で向き合いインスタント味噌汁を飲む過去のフラッシュバックはアニメオリジナルの演出であり、原作小説ではそこまで書いていません。ただ悠太のかつての家庭環境やどんな欠落があるのか等、パーソナルの深い部分については上野監督とすり合わせを行なっているため、このアニオリもまた「原作にはないけれど原作通り」の演出となっています。
ここで2人が交わした「取引」は、べつに家族だったら「取引」でもなんでもなく、無償で与え合う程度のことに思えるでしょう。しかし二人はそういうわけにはいかないのです。
悠太も沙季も「無償の愛」というものを知りません。もしかしたら昔は知っていたのかもしれませんが、忘れています。自分が何かを与えなければ何かを得られるわけがないと、心の深い部分で思っているので、「味噌汁を作る」や「高額バイトの情報を集める」といった些細なことでさえも交換条件付きでなければしっくりこないのです。
「義妹生活」が、「互いに歪みや欠落を抱えながらも交換条件のようにしながら助け合うことで癒やし合う二人の物語」なのだと、ここでハッキリ提示されたと言ってもいいのかなと思います。

・沙季が車に……~傘を……にかけてのシーン
ここはアニメになるに際して原作小説から大幅に圧縮されています。何故、沙季がブレーキを踏まない車の存在に気づかなかったのか、そのあと悠太との間でどんな会話を交わしたのか、どういう思考で傘を渡し、なぜ雨に濡れて帰ったのか。何もかもがわからないように描かれています。これについてあまり深く話してしまうと3話のネタバレになってしまうので控えておこうと思いますが、ちゃんと理由があります。視聴者の皆さんがその表現を的確と感じるかどうかは自由なので、感想は委ねますが、意図は、明確に存在します。いたずらにこういう構造になっているわけではありません。
ネタバレにならないギリギリの言い方をすると、上で述べた「沙季の歪み」や「悠太の欠落」がちょっとずつ影響して、必然的にそういったイベントが起こってしまっている……というところです。

さて、ここまでいろいろ書いてきましたが、そろそろまとめます。
視聴者の皆様にとっては、1話と2話は悠太や沙季のチグハグな部分やバラバラのピースを断片的に見ているような感覚が強かったのではないでしょうか? これは、人間関係を深めていく過程では必ずあることだと個人的には思っています。「この人は、こういう人だろう」と第一印象(ある種の偏見)で判断する→付き合いを続けていくうちに、印象とは異なる言動が見え隠れする→その人の見えていなかった本質がだんだんと見えてきて、その人に対する理解が深まっていく。――と、そのような流れを経ていくものです。この、パズルのように人物をだんだんと理解していくことそのものに興味深さや面白さを感じてもらえるとより一層「義妹生活」が楽しくなるのではないでしょうか。
3話では、パズルが組み合わさる感覚とともに作品の向かう方向が明確に理解できる「何か」が待っています。楽しみにお待ちください。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1811399836002070702

【3話】

※センシティブ判定により埋め込みができませんでした

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』3話、解説・感想(※長文です)】
3話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(3話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)
尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。実は一般の方で、私より高いレベルで映像技法の考察をしている方もいたりしますので、興味ある人はいろいろな人の考察を見てみてください。

では、行きます。
3話の見どころはなんと言っても「日記パート」の初登場。こちら原作小説を読んでいた方は「おおー!こうやって表現したかー!」と感動したのではないでしょうか。
この日記パートというのは原作小説1巻の最後に挿入されている文章です。悠太の視点で沙季がどんな人物なのかをちょっとずつすり合わせながら知っていき、そして最後にあのとき何を考えていたのか、沙季はどんな人間なのかが垣間見える、答え合わせのようなパートとなっています。もちろん日記単体で答え合わせがされるわけじゃなくて(日記に頭の中のすべてが書かれるわけではないので)、それまでの細かい言葉や行動をすべて合わせて自分で考えなければ本当の「綾瀬沙季像」は見えてこないわけですが……ともあれここまで来れば、だいぶ彼女がどんな人物なのかがわかるようになっています。
TVアニメでは大幅にセリフやシーンを省略しているのもあって、原作小説よりもさらに思考しなければならない余地が大きいのですが、しかしちゃんと観ていれば理解できる……というよりは、感じ取れるようになっているなという印象です。

・沙季は思想が強い?
ジェンダーロールへの忌避感や性別への配慮など、昨今いろいろと物議を醸しがちなことについて、真っ当とも言えるし神経質とも言える、極端に気にしている様子を見せてきます。この様子を見て、もしかしたら沙季のことを「思想が強い」と感じる人もいるかもしれませんが、彼女には思想があるようでいて実は何もありません。
沙季のコミュニケーションの在り方は、本人の言葉を借りると「武装」になるわけですが……その単語からイメージされるほどの攻撃性は持ち合わせておらず、どちらかといえば彼女の「戦い」は「防御」に偏っています。
沙季が他人を強く否定したり、悪く言ったりしたのは「母親を悪く言う声」について非難した時だけで、それ以外の時に攻撃的な言動を使ったことはありません。友達を切ったと話したときも、友達だったであろう人たちの悪口を重ねたりはしませんでした。なので、彼女の「武装」とは「ハリネズミ」のようなもので、やわらかい本体を守るための防御であり、触れたら痛いぞ、触れたら攻撃するぞ、という威嚇に近い性質を持っています。
ジェンダーロール云々についても、それに対して不理解である状態に自分を置きたくない、不理解を押しつけられるのが嫌なのでそこは反発する、というだけで、不理解な他の人間そのものを攻撃したい気持ちはないし、同じ思想を持つ人間でなければ許せないといったことは考えていません。
簡単に言えば、彼女は「間違えたくない」だけなのです。それは未熟ゆえの頑なさでもあります。そして悠太から「反射と修正」の話をされるのを経て、「間違いを許容する」ということを学び始めたところなのです。

・悠太のこれまでの人生と、沙季に対しての関わり方
悠太の実母が他の男性と浮気した末に太一の前から去っていったことがアニメ3話で初めて語られます。実母は他人に対して強く「期待」する人間であり、その「期待」が裏切られるととても傷つき、傷ついた事実を盾に相手を攻撃してしまう性質がありました。もちろん100%彼女が悪いわけではなく、長い時間をかけて蓄積されていった鬱屈とした感情の果てに瓦解してしまっただけで、人間であれば普通によくあることです。実父である浅村太一に100%責がなかったかといえば、客観的に見たら(悠太から見たら)ほとんどなかったものの、実母の視点から見れば太一は酷いことをし続けてきたわけです。
これは原作小説でも遠回しにしか書いていませんが、太一は今でこそ子煩悩な雰囲気を醸し出していますが、もともとは大手食品メーカーの営業マン――仕事一筋で、かなり忙しく、若手の身分では家事や育児をサポートするだけの余裕はありませんでした。都内に本社機能を持つ大手食品メーカーといえば、誰もが想像するあんな会社やこんな会社なわけですが、年収にして800万円~1000万円前後。相手方の家族を含めて暮らせるようにと、かなり無理をして都内の3LDKに手を出しています。これぐらいの年収帯って裕福のようでいて実はそこまでめちゃくちゃ余裕があるわけではなく、ちょっとずつ生活に不満が生じていたわけですね。実は太一の稼ぎも充分に優秀だし、足るを知れば幸せになれたはずなのですが、満足ができなかったようで、その苦労や凄さを理解せずに侮っていました。そのため実母は、悠太には太一以上の地位を得られる人間に育てようと考え、かなり無茶な詰め込み教育を行なっています。しかし小さい頃は出来のいいほうではなかった悠太は母親の期待に応えることができず、苦しんでいました。他人とのコミュニケーションも苦手になり、塾で他人と同じ空間を過ごす苦痛から逃れるためにそれが不要だと思われるように必死で勉強を重ねました。そのため、現在ではかなり勉強ができるようになっているのですが、それは「逃げの努力」であって、前向きな努力ではなく、面倒事や脅威から逃げることしかできないのが自分だと認識するようになっています。回避傾向の人間であることへのコンプレックスがあるとも言えます。
新しい家族――とりわけ沙季という義妹との生活は、衝突や面倒事の発生が生じやすいイベントであり、彼にとっては本来であればかなりの重圧になりかねないことだったのですが、顔合わせの日に綾瀬沙季から言われた「私は何も期待しないから、あなたも私に何も期待しないでほしいの」という言葉のおかげでちょっと救われた気持ちになりました。
そうして適切な距離を取っていけば、きっと面倒事を回避しながら生きていけるだろうと思っていて、沙季に対しても深く干渉する気はありませんでした。

ところで2話のいろいろな人の感想を眺めていたら、「信号無視をして突っ込んできたのは車の方であり、沙季は青信号を渡っただけだから悪くない。それなのに悠太が彼女を叱るのはおかしいのでは?」という意見を見かけました。
ごもっともであると思いつつも、これは「ルールを守っていれば何をしてもいい」「ルールを守っていても咎めた方がいい行為がある」という人間社会の中ではよくある灰色の事例のひとつです。
そして浅村悠太という人間が沙季を叱るかどうかに「ルールを守っているかどうか」は無関係で、どうでもいいことです。
彼は体育の授業をサボっている(ルールを破っている)沙季を咎める気はまったくありません。そんなのは本人の勝手だと思っています。
又、ウリ(売春)の疑惑にかんしても、アニメではモノローグを省略しているのでわかりにくいですが、実は「需要と供給が一致していて、本人がべつにいいなら好きにすればいい」と考えています。もちろんそれは「知らないところで勝手にやってるぶんには関与しない」ということであって、あらためて面と向かって悠太に対して「売春やりたいんだけど」と言ってきたら、苦言を呈するし、止めるような発言をする。――そういうバランス感覚なわけですね。
ですが、目の前で沙季が轢かれかけてしまったことで悠太の中でこの境界が一気に壊れてしまいます。
「死んでしまうかもしれないことはさすがにスルーできない」という言葉の通り、ここだけは悠太の中で見過ごせないことだった。そして、確かにルールは守っているけれど迂闊だった沙季に、しっかりと釘を刺すようなことを言ったわけです。実際、この場面はアニメだとわかりにくいのですが、普通に注意を払っていた人たちは車の存在に気づいていたので信号が青になったあとも他の歩行者は誰も動いておらず、耳は英会話に集中し、目は蝶々に気を取られていた沙季だけが歩を進めてしまっていました。ルールは守っているが、危うい行動だったのです。
もちろん沙季の咎が大きいわけじゃないのは悠太もわかっているので、場所を移動して、他人の目につかないところを選ぶ配慮を見せながら沙季本人にだけ釘を刺すような叱り方をしています。
ここで初めて「兄」として踏み込んだことで、悠太はもうすこし兄と妹として過ごすように距離を近づけていいのではないか、と考え始めました。
傘を貸したのもそれゆえの行動のひとつです。

・家庭内売春について
沙季がなぜ突然、夜這いのような真似をしてきたのか。これはいくつかのバラバラの点が、彼女の中で致命的にズレた繋がり方をしたために起きた出来事でした。
その行為に至るまでのきっかけを個別に並べると以下のようになります。

①沙季は本来それほど優秀ではなく、勉強に全力を注ぐ必要があり、最小限の時間で最大のお金を稼ぎたいと考えている
②「他人に頼る思考」の中途半端なインプット
③悠太の性欲の存在を理解した
④高額バイト=売春、の選択肢は常に頭の中にはあった
⑤悠太ならば「事」を起こしても、決定的な関係の崩壊には至らず、冷静に今後の関係も構築してくれると無意識に「期待」していた

大まかに上記のことが沙季にインプットされ、彼女の頭の中で論理が組みあがった結果、あの行為に繋がったわけです。

①については、体育の授業にも参加せず、通学途中も欠かさず英語の教材を聴いているところで表現されています。自分がまだ足りないがゆえに勉強とバイトを両立し、成績優秀である悠太を素直に凄いと思っていますし、きっと彼はもともと優秀なのだろうと考えています。

②に関してですが、沙季は「誰かに無償で頼る」ということがまだ理解できていません。それゆえに家族からお金をもらう場合であっても何かを提供しなければならないと考えています。その上で、「兄」らしい頼れる姿をちょっとずつ悠太が見せていたことで、沙季にもすこしずつ無自覚に「妹」らしい甘えが生じつつあって、「悠太に頼る」という選択肢が浮かびました。ですが、その「頼る」を「無償で頼る」というふうには解釈できず、彼に何かを与えなければならないという方向に考えてしまいました。

③に関して。上の②の思考と「悠太の性欲の存在を認識する」ということが致命的な噛み合い方をしました。悠太が沙季に対して性的な興味を持つことがあるのであれば、この同居生活は我慢を強いるものになるとも言えるし、気まずい瞬間というのはいつか訪れるかもしれない。ならば、いっそのこと互いにそういう関係を結んでしまえば気まずさは一時的で済むし、悠太も欲求を解消できるし、自分は家の中での1時間かそこらの行動だけで悠太が何時間も働いて稼ぐお金をもらえる――提供価値として釣り合うのではないか、と考えました。原作小説では、「それを言うなら料理に対してお金を払わせてほしい」といったことを悠太は言いますが、沙季はそれが金銭を受け取れるだけのものだと認識できていませんでした。より正確に言えば、沙季は、ここまでやらなければ悠太が時間をかけて稼いだお金を自分が受け取ることへの罪悪感を処理できなかったのです。料理は彼女にとって難しいことではなく、苦しいことでもありません。難しさや苦しみを伴う何かを捧げなければ釣り合わない、と思ってしまった。それは、悠太が「悪人じゃなかったから」でもあります。前回、「悪人だったらもっと気が楽だった」と言った意味がここにかかっています。家計をかすめ取ることに何の罪悪感も抱かずに済む相手だったら、何もせずに大学に行くための費用を全額負担してくれと言えていたかもしれない。けど浅村家の二人にはそんなことは言えない――と、少なくとも沙季はそう思っているのです。

④について。「高額バイト=売春」の選択肢は沙季の頭の中に常にありました。
ですが、沙季はさすがにお金の効率だけで考えていません。それにはリスクが伴うことは理解しているので、そのリスクを負ってまで手を出すべきかについては慎重に検討していて、まだ、手を出すべきではないと判断しています。ですが悠太に対してこれを行なうことにもし成功してしまった場合、おそらく彼女は他の人間に対しても売春していくことになったのではないかと思います。慣れて、そして、一人からだけではやはり金額が足りない、ということにいつか絶対に気づくわけですから。しっかり物事を考え、冷静に、理性的に判断した結果に「一般的に推奨されない行為」に流れていくこともある、ということです。ですがここで悠太がハッキリ拒絶したことで、彼女がその道に進む未来はなくなりました。

⑤について。ここは沙季が無自覚にズレてしまった部分です。フラットに見てくれる悠太だったら、全部わかった上で沙季の行為を認めてくれる、そういう期待を無自覚に抱いてしまっています。又、沙季が悠太に「期待」してしまったことはもうひとつあります。
家族の崩壊を起こそうとしないでくれる=両親には秘密にしてくれる、という期待です。
悠太は父親・太一のことを大切に想っています。元妻の裏切りにあったあとは大変落ち込み、自暴自棄になっている姿を見ています。背伸びをしたり、鼻の下を伸ばしたり、みっともないやつだなと呆れることも多いですが、そういった側面も含めて幸せそうな顔を見せる父親の姿にホッとしていて、その時間を壊したくないと考えています。亜季子さんの方に対しても、きっといろいろあって今ここに至るだろうに、幸せそうに微笑んでいる姿を見て、今この環境は二人にとって素晴らしいものなのだろうと考えています。そして、沙季も同じことを考えているだろうと悠太は予想していました。(この「予想」は言い換えると「期待」なので、悠太自身も、すり合わせずに「期待」してしまっていたことを反省することになります)
しかしもしも悠太と沙季が家庭内売春という不純な関係を結んだ場合、それが万が一にでも両親に知られれば、きっとあの幸せそうな顔を曇らせてしまう。崩壊を招きかねない行為なわけです。
今の家族の崩壊を招きかねない行為であるにもかかわらず沙季がそれを仕掛けてきたのは、悠太であればそうならないように振る舞ってくれると「期待」しているからなのですが、「期待でコントロールされること」が悠太にとって最も嫌なことでした。
ここで悠太が沙季の行為を「それ、俺が一番嫌いなタイプの人間だよ」と言って咎めたのは、その点です。

悠太も、沙季も、お互いのことをちょっとずつ誤解していたんですね。
悠太ならこれはだいじょうぶなんじゃないか。沙季はこういう人間なんじゃないか。そのほんのちょっとの「思い込み」が致命的なズレに繋がってしまった。
そこで二人はもうちょっとだけ自分のルーツを話そうということになり、その後、互いの別れた親の話をする流れになりました。

・日記パートについて
上野監督は「日記映画」で知られるジョナス・メカス監督が好きとラジオで仰っていまして、どうやらそこから着想を得た映像演出になっている部分がここなのかなと思いました。
ハリウッドに与さない理念で活動していた方なのもあって、かなりの映画好きでないと知られていないかもしれませんが、「義妹生活」の映像演出を気に入ってくれた視聴者の方にはぜひ調べてみてほしいです。
いわゆる主流とされる表現、売れ筋とか商業的な魅力だけではなく、文化の裾野の広さやその興味深さ、面白さの一端に触れられると思います。
話が逸れました。
ともあれ、中島由貴さん演じる沙季の独白とともに映像が流れ、しかもただこれまでのシーンを繰り返すだけじゃなくて、そのほとんどが描き下ろしとなっていて、沙季の視点で1~3話までに起きたことが描き直されています。
一枚の絵がちょっとずつ線を重ねて、色を重ねて、完成していくみたいに。1つの出来事をちょっとずつカメラの角度を変えたり、視点を変えたりすることで物語として完成する。……そんな演出になっていたかと思います。

沙季の意外と子どもっぽいところや距離の近い人間が少なかったことによる言葉にできない人間関係の戸惑い、モヤモヤ、というものがわかって、いっそう沙季が魅力的になったと思います。
こうして沙季のパーソナリティが明かされてからの、ここからの日々は本当に破壊力が強いです。4話以降、話を追うごとにどんどん沙季が可愛くなっていきます。悠太と沙季の距離も、ちょっとずつではありますが、近づこうとしたり、離れたりします。
更に読売先輩や真綾といった他の登場人物も関与して、悠太と沙季の生活はどんどん色を変えていくことになりますので、4話以降も皆さま是非楽しみにしていてくださいませ。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1813937865925251293

【4話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』4話、解説・感想(※長文です)】
4話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(4話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)
尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。
私の解釈が絶対の正解というわけではないので、皆さまも自分なりにこのアニメ作品から受け取ったものを素直に受け取って独自に解釈してもらえればと思います。

今回は原作の意図の説明よりもアニメにおける演出の解説が多めになる予定です。
では、行きます。

・沙季の部屋にいるメダカと水槽
こちらは完全にアニメオリジナルの存在で、原作小説には登場していません。ですが、上野監督からメダカと水槽を登場させたい、沙季がメダカを飼っていることにしたいという要望を聞いて、私も納得してOKの返事を戻しています。これは「私が小説で書きそびれていただけできっと原作通りなのだろう」と思えたことのひとつです。
監督が映像で表現したい意図を私はあるていど聞いているので知っているのですが、これを私の口から視聴者の皆さんに明かしてしまうのは野暮かなと思うのであえて伏せておきます。ただハッキリと言えるのは、「メダカの存在は表現すべき何かを象徴するメタファー(暗喩)になっている」ということでしょうか。又、メダカの種類にも意味があります。
監督の意図にあまりにも感銘を受けたので、BD/DVDの特典で書き下ろさせていただいた小説でもこの水槽とメダカについて触れました。気になる方は特典付きのBDをご購入くださいませ(宣伝)。
それはさておき、ここからは上野監督に直接聞いたわけではなく、勝手に読み取っていることなので言ってもいいかなという部分について話します。
私が自分で発見したことではなく、音響監督の小沼さんと話しているときに出てきた考察で、私も自分の中で咀嚼できた内容なので話すのですが――TVアニメ「義妹生活」においては「水」がたびたび表現に使われていて、特に水槽の中というのは沙季の息苦しさのようなものを表現しているのではないか、と。これはまた後の回でハッキリとそれを感じられる描写が出てくるのですが、それについてはその回になったらまた話します。このことに気づいてからED曲のタイトルを見ると、意味深ですね。「水槽のブランコ」。Kitriさんがどこまで意識してのタイトル付けかはわかりませんが、この上なくピッタリなタイトルかと思います。

・「現代文を教えて」の距離感
沙季が明確に悠太を頼ろうとしてくるシーンになります。3話の出来事があって、さらに一ヵ月程度が経過しているのもあって沙季は悠太にすこしずつですが頼ることを覚え始めています。
しかし「現代文を教えて」と言ってくるときの沙季の距離の詰め方は、明らかに普通じゃありません。こんなに急に早足になって、ここまで顔を近づけてくるのはちょっとおかしいわけですね。つまり頼り慣れていない、頼りかたが下手であることの表現なのかなと思います。より正確に言えば、「距離の近づけ方が下手」でしょうか。距離を保とうとしている一方で、いざ近づこうと思ったときは極端に、大胆に近づいてしまう――そういう沙季の性質がよく表れている行動かなと思います。

・奈良坂真綾について
意外に思われるかもしれませんが、真綾はめちゃくちゃ頭がいいです。どれぐらい賢いかというと、東大現役合格が余裕で視野に入るくらいのレベル。これは原作でもあえてハッキリとは説明していないのですが、この機会にちょっと裏設定を明かしますと――実は彼女のコミュニケーションタイプは「バランサー」タイプであり、常に「その集団の中で欠けているタイプ、足りていない属性の人間」を演じるような動き方をしています。アホみたいな言動が目立つのは、この学校がかなりレベルの高い学校で、真面目寄りの人間が多いためです。
たとえば球技大会に向けてのテニスの練習で、「大天空サーブ!」とか言って、ふざけた打ち方をしているのですが……実はこれ、ふざけていい空気を作り出すためでもあるんですね。球技は上手い人、下手な人が明確になってしまって気まずい空気になったり、最初は気楽にやってたつもりがだんだん勝ち負けにこだわり始めて嫌な雰囲気になったりします。特に真面目だったり負けず嫌いな人間が多すぎる場だと、そうなりがちです。そんな中で真綾は自ら率先してふざけることで、空気をコントロールしています。
とはいえ、べつに論理的に、計算でコントロールしているわけじゃなくて、直感的に「こうしたほうがいい」と考えてやっているだけです。天然のコミュ強なわけですね。
沙季のことを心配しているのも、彼女が教室全体をよく見ているがゆえのこと。そして、沙季が悠太と出会って良い方向に変化していることに気づき、悠太との関係を後押ししようとしているのも真綾なりの野性的な勘で「そうしたほうがいい」と感じているのだと思います。
弟の人数は内緒です。

・読売先輩について
読売先輩は「黒髪ロングの大和撫子」と思われやすい外見ですが、実際は下ネタが好きで、テキトーで、軽いノリでくだらない話(嘘ついたり、ユーモラスな話をしたり)をするのが好きな女性です。清楚な雰囲気が出ているのは生まれ持った顔立ちが柔和な雰囲気だっただけで、黒髪ロングなのも、いろいろな髪型や色を試してみたけれど黒髪ロングが一番自分に合っているだけ。性格とはぜんぜん関係ないのだけれど、見た目で清楚でお淑やかな性格を期待されることが多く、「素」を見せると驚かれたり、ガッカリされてしまうことが多かった。更にテキトーな嘘(冗談)とガチ雑学をまじえて話すのが楽しいからそうしたいのに、見た目の印象から「真面目」「誠実」と勝手に思い込まれ、「真面目そうなのに何か変なこと言ってる…」という引かれ方をしたり、明らかな冗談なのに「たちの悪い嘘をついている、腹黒」と勘違いされたりします。その反応がいちいち面倒で、よっぽど交友関係を進めたいと感じた相手以外には「素」を見せないで、イメージされる通りの大和撫子を演じています。天然でやっている真綾とは違って、読売先輩は論理的に、かなり考えた上でこのコミュニケーションを選んでいます。とはいえ、沙季ほどのガードの硬さはなくて、初めて会う人に自分のノリが通用するのか一度さらっと試験的にジャブを打って確認し、「あ、無理だ」となったら大和撫子モードに、「行ける」となったら「素」モードになる感じですね。悠太は彼女の「テキトー話」のジャブに対して100点満点に近い反応を返したことで、とても打ち解けた仲になった……ということです。
彼女に関しては5話でもっと掘り下げられることになります。お楽しみに。

・LoFi-HIPHOP
ローファイ・ヒップホップは世界中で密かな人気を誇り、2017年ごろからYouTube上で注目を集めていました。もしかしたら日本で知っている人はあまり多くなかったかもしれません。癒やされる、ストレスが緩和される、集中できる――とされ、睡眠用や勉強用に使われることもしばしばありました。音楽自体はけっしてそのために作られたわけではないと思いますが、結果的にそういう需要と噛み合った側面もある、ということですね。
もともと小説において「チルな読み味」というものを追求していたこともあり、癒やしを必要とする沙季に聴かせる音楽としてこれ以上のものはないと考え、ローファイ・ヒップホップを作中に登場させました。
YouTube上でも実際に作曲家の方に依頼し、作っていただいたローファイの作業用BGMを投稿しています。
尚、TVアニメではあらためて作曲家の方(YouTube版とはまた別の作曲家の方です)にLoFi-HIPHOPを作っていただいたようです。4話の後半に流れていたローファイ、とても素晴らしく、沙季と一緒にこちらまで聴き惚れてしまいました。

・ED映像
エンディング・アニメーションは映像作家のhewaさんが制作しています。水彩画のようなタッチの絵の3Dで映像を作るという特殊な技法で作られているそうです。上野監督曰く、この映像に出てくる人物が悠太なのか沙季なのかは確定はしないが、間違いなく悠太と沙季の関係を仮託した存在である――というイメージとのこと。
これは私の裏テーマを汲んでくださったのか、あるいはたまたまなのか……私もわかりません。
「義妹生活」には私が原作小説を書くときの裏テーマがあります。それは「悠太と沙季が実在していると仮定して、私は自分のフィルターを通して、そんな彼らの私小説を勝手に書いているだけ」と意識することです。
TVアニメ本編は上野監督のフィルターを通して、悠太と沙季の生活を表現している。エンディング・アニメーションは、hewaさんのフィルターを通して、二人を表現している。そういうことなのかな、と勝手に思っています。

・次回予告
全国の読売先輩ファンの皆様、お待たせしました。読売先輩に大いにフォーカスされる回が来ました。そしてここ、めちゃくちゃ語りたいことが多い回でもあります。言いすぎるとネタバレになっちゃうので言いませんが、悠太、沙季、読売先輩にとっての最初で最後で最大のターニングポイントがとんでもない描かれ方をしています。原作勢の方も、アニメ勢の方も、来週を楽しみにお待ちくださいませ。

なんと今回は3600文字ほどで終わりました。
語りたいことが減ったわけじゃなくて、「ここまで詳細に言わなくても、そろそろみんな読み取ってくれるんじゃないか。読み取りたいと思っている人が増えてるんじゃないか」という期待が芽生えつつある証拠かもしれません。おかしいですね、一方的な期待なんてすべきじゃないのに。

とはいえこの長文解説・感想は来週もパワーダウンすることなく続きますのでご安心ください。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1816473506273734754

【5話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』5話、解説・感想(※長文です)】
5話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(5話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください。又、読売先輩をミステリアスな存在のままにしておきたい方は読まないことをおススメします)
尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。
私の解釈が絶対の正解というわけではないので、皆さまも自分なりにこのアニメ作品から受け取ったものを素直に受け取って独自に解釈してもらえればと思います。

今回は原作小説の読者の皆さまにも果たして伝わっているのかどうかわからない、これまで作中でほとんど触れたことがない「読売先輩のコト」について、ちょっとだけ裏側も含めて語っていこうと思います。尚、このあたりはいずれ小説の形でもどこかで出したいなぁとは考えてはいまして(というか中編小説という形ですでに書いてありまして)。未定ですけれど、機会があったら、どこかで出版させてください、MF文庫Jさん。
話が逸れました。ともあれ今回はそんな語りたいこと満点の読売先輩回です。
原作範囲のネタバレも若干(ホントにちょっとだけ)含みます。お気をつけください。
では、行きます。

・なぜ読売栞は悠太に惹かれているのか
アニメでは悠太と沙季の関係に最も焦点を当てるために、それ以外の多くの部分が省略されています。小説の場合は1イシューを描く際に、「脇道にそれながらもイシューを忘れさせない工夫」がしやすいのですが、映像ではそれが難しいのだと思われます。カメラを向けて、その場面を切り取ることの意味づけが重いといいますか、「サクッと軽く触れておく」みたいなことが難しい印象です。
そのため、悠太と読売先輩のやり取りも、多くが省略されています。原作小説とまったく同じように読売先輩とのやり取りを描いてしまうと、悠太と沙季の物語という意味ではブレてしまう、ということですね。
ですので、読売先輩が悠太に惹かれている理由を察するのは、かなり難しいかもしれません。とはいえ、理由なんて正確に理解できなくても、「ただありのままにそうある」ということをまるっと受け取ってしまえれば作品として成立しているわけだし、問題ではないなと個人的には思います。
……で、読売先輩が悠太に惹かれている理由について。
一番大きなところは、「冗談やテキトーな嘘も、下ネタも、ガチな雑学も、本の話も、興味を持って、あるいはフラットに、しっかり打ち返してくれる」部分です。
読売先輩は実は沙季とは正反対の性格の持ち主でして、沙季が真面目な話が心地好く、ユーモアやふざけた話が苦手なのに対して、読売先輩はユーモアやふざけた話といったノリが心地好く(やりやすく)、真面目な話が苦手です。真面目といいますか、シリアスな雰囲気の会話が苦手だったりします。特に自分から悠太に話しかけるときには、ユーモアをまじえずに真面目な切り口で声をかけるのは、かなり気が引ける……と思っています。
悠太が、真面目な会話を望む沙季に対しても、ふざけた会話を望む読売先輩に対しても、心地好いコミュニケーションができていたのは、彼が誰に対してもフラットな姿勢で対応している証拠でもあります。

さて、読売先輩が「冗談やテキトーな嘘、ふざけた会話を得意とし、シリアスな雰囲気が苦手」となるに至った彼女の生い立ちについて語っていきます。
彼女は幼少期~小学校中学年あたりまでは男子と遊ぶことが多く、男子的なコミュニケーションにどっぷりと浸かってきていて、そこに心地好さを感じていました。が、高学年になり性差が顕著になるにつれて友達は減っていき、孤独になり、勉強家で読書家である兄の影響で本を読むことが増え、本好きになっていきました。中高大学と女子校に通いながらも男性との接点がまるでないわけではなく、合コンなどに連れていかれることもありましたが、そこで出会う男たちのつまらなさにかなり辟易しています。まあこれは男に限らずですが、彼女の嘘や冗談を真に受けすぎたり、ドン引きしたり、腹黒と思われたりと、彼女にとってはユーモアの範囲で楽しく話せればいいのになーぐらいの軽い気持ちで発した言葉が想定外の捉えられ方をしてしまうことが多発しました。他の、わかりやすく軽い雰囲気の子が似たような会話をしているときはそんな雰囲気にならないのに、読売先輩が同じことを言うとドン引かれる。「栞はそういうタイプじゃないじゃん。無理しなくていいよ~」みたいに気を遣われる。もっと言うと異性の人間は、すぐにシリアスな雰囲気を出してきて、口説こうとしたりしてきたり。そんな人間関係に疲れていました。
悠太は、そうではなかった。思い込みを排してフラットに接してくれる彼との時間に心地好さを感じており、好意を抱くようになっていったというわけですね。
このあたりは「漫画エンジェルネコオカ」での「出張版」に、実は読売先輩のスピンオフを掲載していて、そこで秘密の一端に触れています。(ただこれはかなり表面的な部分で、彼女の人格形成において最も大事な「過去」の出来事には触れていません)
https://youtu.be/x52_1mhg9RY?si=TyhSgbkbbhzcfcCR

もう1つ、彼女の人格において大きな要素があるのですが、それについてはもっと下の方で語ります。
ところでこういった読売先輩の思考の流れは原作小説でもハッキリ書いていません。設定は存在しながらも、表には出さずに香らせる程度に留めています。それは「義妹生活」が悠太と沙季の私小説であるならばその真実に至れるはずがないからです。読売先輩の過去やバックボーンをすべて誤解なく伝わるように作品を書いてしまったら、その時点で「嘘」だと感じてしまうので、私は本編であえて明示していません。

・なぜ悠太は女性が苦手なのに読売先輩と仲がいいのか?
では、そもそもなぜ読売先輩が必要なのか? 悠太と沙季の物語というのであれば、余計な登場人物なのではないか? もっと言えば、女性が苦手なはずの悠太の交友関係としては不自然じゃないか? そう思う人もいるかもしれません。
しかしあたりまえのことですが、読売先輩は、物語上、必要不可欠な存在であります。
まず悠太の「女性が苦手」という属性ですが、その要素をきわめてフィクション的に処理すると「女性といっさい近づかない、交友関係を持たない」や「女性と触れ合うと何らかの拒絶反応を起こす」といった表現になりがちかと思います。しかし悠太の状態はべつにそういった肉体的不調を伴う病気のようなものではありません。彼が苦手としているのは、男女の性的関係(恋人関係や夫婦関係、片思い等)であり、そこにつきまとうあらゆる感情や行動そのものです。永遠の愛を誓いながら裏切るだとか、自分は浮気をしていながら相手のことは束縛するだとか、勝手に期待をかけておいて満たされないと怒るだとか、そういうことに対して忌避感、嫌悪感のようなものを持っています。逆に言えば、そういう色っぽさのようなものに巻き込まれなければ大丈夫ですし、表面的な関係性であれば女性ともふつうに会話することができます。恋愛関係を意識するのは苦手だけど、異性とのコミュニケーションも表面的には普通にできます、という人も現実には多いのではないでしょうか。つまりそういうことです。
読売先輩は特別女性として認識することなく会話できている。そのため、悠太にとっても接しやすい相手ということです。ほとんど男友達のような感覚なわけですね。
(男友達といえば、TVアニメでは尺の都合で丸との会話がかなり省略されてしまっているので女子とばかり話しているように見えてしまっているかも。そこは痛しかゆしな部分ですね)
が、読売先輩の場合は丸と違って、ただ気が合うだけの友達……の役割だけでは済みません。
女性に対して「性」の部分を意識しなければ円滑にコミュニケーションできる悠太ですが、沙季との同居によって、徐々にその意識と向き合わなければならなくなりつつあります。そのため、これまでだったら気にならなかった読売先輩との関係についても、無自覚ではありますが、ほんのりと、見つめ直すことになっていくわけですね。もちろん、いきなり恋愛感情を持つことになるわけがないのですが、普通であれば恋愛対象になってもおかしくない相手とこんなに近しい距離にいる、ということを意識することになるわけです。
これはこの後の展開でもたびたび提示される「恋愛感情の鍵ってどこにあるんだろうね」という問題にかかわってきます。「気が合うから好きになる」「いっしょに過ごす時間が多いから好きになる」「見た目が美人だから好きになる」のであれば、読売先輩でも良かったはず。感情が論理的に、理屈だけで説明できるなら、「読売先輩に恋愛感情を持たないなら、沙季にも持たない」そういう結論になりそうなものですが……。このあたりも、考えながら観て行ってもらえるといいのかなと思います。

・劇中劇について
原作小説ではあまり具体的に言及していなかった劇中劇が、かなりガッツリ描かれていました(笑)
正直、私も「ここまで描くの!?」と驚いた部分です。
本編に動きが少なく見えるシーンが多いのは「静」の作品であるがゆえの演出上の意図なわけですが、このスタッフさんたちが「動」の演出を意図したらこんなにアクション豊富になるんだというのがよくわかるのではないでしょうか。
もっとも、本編にしてもOPの動きは凄まじいものがありますし、普段の生活所作の難しさを想像すると、実は細かいところでかなり動きの多い作品だと思うのですが。
ところでこの劇中劇をあえてボリューム多めにやったのは何故か、について。これは制作陣に聞いたわけではないので完全に私の予想でしかないのですが、おそらく「読売先輩が好きすぎたから」じゃなかろうかと思っています。
あえて言うまでもなく当然のことですが、悠太と読売先輩が結ばれたら駄目です。それでは別の物語になってしまうので。しかし、この劇中劇で悠太と読売先輩の関係性のIFを暗示することで、その想いを昇華することができる。だからここまでの劇中劇の作り込みに至ったのではないでしょうか。上野監督、スタッフの皆さん、違ったらごめんなさい(笑)
私が「アニメスタッフさん達、読売先輩が好きすぎ説」に至った理由については、以下の『「あと半年の命」発言について』項目でもうすこし掘り下げようと思います。

・「あと半年の命」発言について
読売先輩の彼氏になりたい方々、この発言にどんな反応をしましたか?
「え? 本当に……?」と、ガチで心配してしまった人。残念ながら、不合格です。
……というのは、冗談半分、本気半分。
でもここでTVアニメ版の悠太と同じ返し方ができれば、読売先輩とめでたく結ばれること請け合いです。
うーん、なんてめんどくさい人間なんだ、読売先輩。
原作小説を追いかけている人はすでに知っていることと思いますが、半年後に読売先輩は死にません。生きています。
なのでここでの「あと半年の命」発言は完全に嘘なわけですね。これは読売先輩の冗談史上もっとも「たちの悪い冗談」であり、実は原作小説ではこれを言った後、「さすがにたちが悪かったね、ごめんね」と謝っています。
TVアニメでは謝っていないんですが、それは何故かというと――実はそもそも原作小説とTVアニメで、悠太の回答が違っているんです。
原作小説では「どこまで本気だ? どこまで冗談だ?」と探るような沈黙が続いてしまい、読売先輩は悠太の回答を待たずに「たちの悪い冗談だったね」とネタ晴らしをします。これは読売先輩のコミュニケーション「冗談を軽く打ち返してくれる関係性」がどこまで通用するのかという試す行為であり、甘えでもあり、彼女の中で、これを打ち返されたら告白しようというものだったのですが――読売先輩自身、悠太を試してしまったことに即座に自己嫌悪し、ネタ晴らしをした上で「こんな試し方をしちゃった自分より他の人と恋仲になったほうが悠太には幸せだな」と直感して身を引いたわけなのですが……。
ですが、TVアニメでは悠太は彼女が反省して身を引くよりも先に「正解」を引き当てました。
読売先輩は一歩を踏み出そうとしましたが……間の悪い自動販売機のせいで、結局は原作小説通りの流れに合流したわけですね。
上野監督が読売先輩の性質をどこまで理解していたのかは知りませんが、悠太に「正解」させ、ワンチャンスを生じさせたのは確かです。そこで私は「アニメスタッフさん達、読売先輩が好きすぎ説」に確信を持つことになったわけです(笑)
ところで「あと半年の命」発言がなぜ恋愛に発展するかどうかの最終試験になったか、なぜこんなことを読売先輩が口にしてしまったのかというと、これには原作小説でも書いていない裏話があります。
そしてその裏話は、上野監督にも話したことがありますので、TVアニメの描写は、それを前提として描かれていると思われます。
もちろん言うまでもありませんが、「最終試験」というのはわかりやすさのためにそう表現しているだけで読売先輩はべつに「恋人に値するかどうか試してやろう」と思っていたわけじゃありません。
ただ、いっしょに映画を見て、良い雰囲気になって、沙季のこともあって関係性を一歩前に進めようかを考えたとき――これまで出せずにいたシリアスな雰囲気を出しながら話を切り出そうと思ったものの……ユーモアやふざけたノリを会話の切り出しにしなければやはり声をかけられなかった。なので映画のセリフを取っ掛かりに、苦手なシリアス雰囲気の中で告白に向かおうとしたのです。
その上で、彼女は一般的にはたちの悪い冗談を言ってしまった。距離の詰め方が下手な沙季と同じように、シリアスな話をするための切り出し方や話題の出し方が下手なのでこんな切り口になってしまった。
小説版では、悠太が答える前に自己嫌悪して自制。TVアニメ版では答えてもらえたから可能性が生じたものの、やはりだめでした。
さて、ここで2つ疑問が残ります。「読売先輩が命にまつわるようなことさえ冗談にできてしまう理由」と「なぜ、これが恋愛関係に進むかどうかの最終試験になるのか」です。
その答えは、彼女の死生観にあります。
読売先輩は余命半年ではないものの、生い立ちから「命」に対してちょっと思うところがある人物です。特殊な死生観を持っている。シリアスな雰囲気が苦手になった理由も、そんな死生観を持つに至った過去のある出来事が関係しています。
人間はいつ死ぬかわからない、今読んでいる本も読み終わる前に死んでしまうかもしれない、「未来のためだから」とやりたいことを我慢してやるべきことだけやっていたらやりたいことができるようになる前に死んでしまうかもしれない。だから今、目の前の好きなことだけを何の気兼ねもなくやって、やりたいことを我慢せずに全力で取り組む。テキトーなこと言いたいときにテキトーなこと言って、真面目な話をしたいときに真面目な話をする。言ってしまえば「常に余命半年――あるいは余命1日のつもりで生きている」のが読売栞という人物なのです。命、あるいは生き永らえるということに対しての重みが、一般的な人に比べて軽い、とも言えます。なので、命に対しての温度感が揃う相手でなければ、いくら心地好い距離感だとしても一生を添い遂げる相手としてはしんどいだろうということですね。
小説版の悠太は、命に対しての温度感で読売先輩とは微妙なズレ方をしているので、恋人ならともかく結婚まで行ったりしたら、きっと細かいところでうまくいかない。仮に恋人のような関係になり得るとしたら悠太みたいな相手しかいないだろうなと思いつつも、そんな悠太でさえピッタリとはいかない、というところで彼女はある意味で映画のヒロインのような恋愛的なハッピーエンドは自分にはないんだろうなということを悟ったのかもしれません。人生の楽しみはさまざまなので、彼女は恋愛以外の部分で人生をハッピーエンドにしていく道を選ぶのかもしれませんね。

ちなみに、特殊な死生観を持つに至った過去のある出来事についてですが……実は未発表の中編小説ではすでに書いているものの、まだ世には出しておらず。いつか出すかもしれないので、ここではあえて語らない事とします。

・運命の分岐点
原作小説では悠太と読売先輩が恋仲になる未来は訪れない、という描き方でしたが、TVアニメではかなりきわどかったという描き方になっています。
この話を始めたのが自動販売機の前でなければ……どうだろう、ここで読売先輩が告白できていたら、TVアニメの悠太はどう答えたんだろう。たぶん即答ではないにしても、悠太と読売先輩は付き合うことになったんじゃないかな、と思うのですが、私にもわかりません。
いずれにしてもここが悠太、沙季、読売先輩にとっては最初で最後で最大のターニングポイントになりました。

ちなみに読売先輩が本気で嫉妬している描写はありません。原作小説でも、ありません。おそらく誰かと付き合うことになったとき、彼女は相手をほぼ束縛しないと思われます。何なら相手が浮気しても許容するかもしれません。おちゃらけたふざけた嫉妬は見せるかもしれませんが、シリアスな雰囲気で浮気を咎めたり、喧嘩をしたりするのは苦手だと思います。それに半年後、1日後に死ぬかもしれないのに相手の人生を縛るのはどうなの? って考えも持っていますし、相手も半年後、1日後に死ぬかもしれないんだから好きなように生きればいいんじゃない? って考えもあります。
そういう人物なので、嫉妬心や悩みがゼロというわけではないけれど、表面にそういう感情は出にくいわけですね。
まあ、嘘が得意な人ですから、隠すのが上手いだけなのかもしれませんが。

・沙季の感情
読売先輩と映画に行ったという話を聞いて、沙季は何らかの感情を抱いています。
さて、それはどんな感情でしょうか。現代文の読解問題だとしたら、こんな簡単な問題はありませんよね。
ただ、実際に沙季はどんな感情を抱いているのか。抱いた感情をどのように処理しているのか、そのあたりが判明するのは次回以降(何話先かは明言しません)となります。
読売先輩から「ガチなやつかも」と聞かされて、悠太は沙季に恋愛感情を向けられている可能性を初めて指摘され、意識するきっかけとなります。
この時点で悠太はそんな可能性をこれっぽっちも考えていなかった&本人も沙季に対して恋愛感情を持っていなかったので、「まさか」と受け流していますが……。
この先の展開については、6話以降を楽しみにお待ちください。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1819010695134081224

【6話】

【原作者によるTVアニメ『義妹生活』6話、解説・感想(※長文です)】
6話を観ていただいた皆様、ありがとうございました。
毎週恒例「原作者の視点でアニメに対しての感想を書いていくやつ」です。(6話範囲のネタバレを含むポストになるので、まだ観れていない方はお気をつけください)
尚、この長文解説・感想はあくまでも私視点での解説。1つのサブコンテンツです。
私の解釈が絶対の正解というわけではないので、皆さまも自分なりにこのアニメ作品から受け取ったものを素直に受け取って独自に解釈してもらえればと思います。

では、始めます。

・帰宅中の真綾がスマホを向けているシーン
ここで真綾は「二人でカップルYouTuberとかやればいいのに~。絵になるよ~」といった感じでからかっています。原作小説では沙季が高額バイトを探していたというのにもやや関連し、YouTubeで人気になれば一攫千金だよ! 的な会話をしています。
これは物語自体の進行や意味合いとはあまり関係ありませんが、そういう日常会話もあるよねといったたぐいのやり取りです。
又、『義妹生活』は作品発表の初出がYouTubeですので、YouTube版の位置づけを遠まわしに示唆するためのやり取りでもありました。
YouTube版は小説版やTVアニメ版とは異なりバラエティ色の強い内容となっていますが、それは「実在する悠太や沙季がYouTuberの演者として振る舞っているのが『義妹生活』チャンネル」という位置づけだという裏テーマがあります。ですので、YouTubeの彼らは間違いなく本人たちではあるものの本人そのままではないというイメージでいます。YouTube版で二人が暮らしていることになっている家は「セット」でして、彼らが実際に暮らしている家ではなく、そのため初期のころは同じ部屋で二段ベッドだったりしますし、世界観がぶっ壊れていきなりSFになったりホラーになったりします(笑)
悠太と沙季を演者、真綾がカメラマン、丸が裏方で運営しているYouTubeチャンネル……それが義妹生活チャンネルなのです。(途中からカメラマンや裏方が動画に出始めるのも、YouTuberのあるあるな流れを踏襲しています)

・浅村家の料理当番事情
ここ一ヵ月ほど、亜季子さんや沙季が料理当番をすることが多かったのですが、べつにこれはこの二人に料理当番を押しつけようとしていたわけではありません。単純に悠太と太一にそのスキルがなかったため、この二人が当番のときには出来合いの総菜やカレーあたりになることが多く、亜季子さんや沙季が担当すると一般的な家庭料理になることが多かっただけです。つまりスキルがある方が多めに担当していたわけですね。ただ、それではまずかろうということはわかっていて、悠太や太一もだんだんと料理を覚え始めています。
悠太が「今日は俺が作るから勉強に集中してて」と言ったのも、べつに今日初めて料理当番を担当するわけじゃない(学び始めてはいる)けれど、今日は当番の日ではなかったという話ですね。最近学び始めたとはいえまだまだ料理初心者ですので、全然駄目なわけですが……。

・真綾クッキング終了の時間
真綾は酢豚づくりを手伝うだけ手伝って、いっしょには食べずに帰りました。これは真綾が悠太と沙季を二人きりにしたかったというのもありますし、彼女自身の家庭事情も関係して帰宅を選択しています。
原作小説ではハッキリ書いているのですが、そもそも真綾は放課後ほとんど友達と遊べません。今日、沙季の家に来られたのはかなり特殊なことです。と言いますのは、真綾の家は裕福であるものの、裕福さの理由は両親が忙しく働いているからであって、両親は夕飯の準備をほとんどできません。そして小学生くらいの弟が大勢いるわけなのですが、彼らが食べる夕飯を作るのは真綾の仕事です。この日は母親が珍しく早く家に帰ってこれそうで、夕飯も作ってくれるということだったので真綾は遊びに行くことができたわけですね。
で、真綾としても母親の手料理を食べれる貴重な機会なので、帰宅して夕飯を食べたい、と思っているわけです。このあたりは悠太と沙季の物語に直接関係のある話ではないので、TVアニメ版ではあるていどカットして描いているのだと思います。

・夏の豪雨
ここ数年、渋谷を含め、東京都内は夏にゲリラ豪雨に見舞われることがとても多いです。
凄まじい雷と強風、洗濯機の中にいるのではと錯覚するほどの雨が降ることもあります。
渋谷に暮らしている悠太たちも当然こういった気象を経験することになります。
東京のゲリラ豪雨を経験したことがない人にはわかりにくいかもしれませんが、命の危険を感じるレベルの雨です。災害レベルの雨で、この気象の中で家族の帰宅が遅れていて、連絡もつかないというのはすごく心配になる出来事です。
原作小説ではそれに加えて悠太は「人によってどんな出来事が〇〇のトリガーになるかわからない。他の人からすれば『そんなことで?』と思うようなことで〇〇してしまうこともある」という話を脳裏によぎらせています。(※〇〇はセンシティブ避けで伏字にしていますが、お察しください)他人からは「そんなことで」と思われることをトリガーに〇〇してしまう学生が数万人に一人いるとして、ここまでの生活で悠太は、沙季が数万人のうちのどちら側に位置するのかわからないと感じています。少なくとも世間一般の平均的な感性の持ち主ではないと思っているし、だとしたらパーセンテージの少ないほうの行動を取ってしまう可能性を否定できない。それでどんどんと不安が積み重なっていった……というわけです。

・ギブ&テイク感覚の不均衡
沙季は悠太に勉強を教えてもらったり酢豚を作ってくれたお礼だからと特別なご馳走をしてあげたいと言っていますが、悠太は「料理を作ってもらっている回数が明らかに沙季の方が多いし、釣り合ってない」と返します。沙季は「ギブ&テイクはギブを多めに」と言っているものの、それにしたって悠太視点では沙季のほうに天秤が傾きすぎているように思えます。
しかしこれは、沙季が、彼女の中に秘めている感情への罪悪感や悠太に対しての細かいコミュニケーションのズレに対しての罪悪感を含めて天秤に載せているために生じている感覚のズレです。甘えるべきではないのに、甘えてしまっている。こんなこと思うべきじゃないのに、思ってしまっている。そういった、沙季自身の中での矛盾や不均衡を是正するために悠太の利になると明確に思える何かを返さないといけない――そのように考えているわけです。
又、原作小説では悠太はここで「この義妹はどれだけ返そうとしても、更に大きなギブを返してくる」といったことを感じています。悠太としては貸し借りを作りたくない、その不均衡を作らずにフラットな関係を構築したいのですが、どれだけ返そうとしても沙季が倍プッシュしてくるので永遠に返しきれない……といったところで、そこそこ心乱されています。
又、「今日のところは素直にご馳走になればミッション達成?」「うん、そうしてくれるとうれしい」というやり取り。これも些細なようでいて実は歪なやり取りでして、ふつうはご馳走される側がご馳走する側に「お願い」をして、ご馳走される側が「ありがとう」とか「うれしい」とか返します。しかしここではご馳走する側が何故か「お願いする側」になっていて、される側が「お願いを聞く側」になっています。
原作小説でこのとき悠太は、こういった不均衡、トリガーとアウトプットが一対一の図を描いていないということこそが現実の難しさだということを感じています。読売先輩と観た映画の中での出来事とも比較してそう感じています。映画の中では、わかりやすく恩を受ける側が「ありがとう」、恩を与える側が「どういたしまして」のやり取りをしていて、アウトプットに不均衡がありません。ですが現実は、自然物が人工物と違って歪な形になりやすいのと同じように、必ずしも一対一の形をしていないわけですね。

・狭い密室空間に二人きり
原作小説でやった表現として、ここは個人的にもお気に入りといいますか、よく書けたなと自画自賛している部分です。
ここも映画と違ってドラマティックさが足りないなと悠太が自嘲的に感じる場面です。主人公がヒロイックな思いに駆られて駆け出したら、次に見晴らしのいい丘とか高いビルの屋上とか、まあとにかく特別感のある素敵なロケーションでヒロインと再会し、熱量たっぷりの会話をこなすことになるわけですが……悠太が沙季と出くわしたのはマンションのエレベーターという毎日使っている日常的な空間、しかも沙季に何かドラマティックな問題が降りかかっていたわけではなく、大きく揺り動かされるような会話が展開されるわけでもない。どこまでも日常的。しかしここでの悠太と沙季の会話は、二人にしてはわりと踏み込んだ、地味に距離感が変わるようなものだったりします。
ここで込めているメタファーについては、映像の解説というよりは原作小説の意図の解説になってしまって、自分の手法を説明しているようで気恥ずかしいのですが……この長文は読者サービスの一環ということで、ふだんはやらないけどあえて説明したいと思います。
狭い密室とは、「人間の脳」を暗喩するメタファーです。人は脳みそという狭い密室の中であれこれ物を考えて、行動を決定していくわけですが……つまり「狭い密室に二人きりで会話する」というこのシーンは、いろいろと自分の頭の中で考えがちな悠太と沙季という二人が、自分の頭の中身を開示したりすり合わせたりすることを意味しています。
特にエレベーターは「行き先を設定したら目的地まで運んでくれる」という性質があります。明確な関係性の行き先がまだ定まっていないので、どこにも移動することのないエレベーターの中で会話をし、結局は下にも上にも行かずにその階のまま動かずに二人で降りることになるわけですね。

・最後の日記開始の演出
今回はまだ日記パートが来ていません。(たぶん尺の都合で……)
次回、日記の演出も含めてかなーーーーーりヤバいのが来ますので、楽しみにお待ちください。

というわけで今回は原作小説でも映像演出を意識していた部分でもあるため、映像の解説がそのまま原作小説の解説にもなることが多い回でした。

さて、1~6話までTVアニメを観てくださって、すでに「義妹生活」を高く評価したり、愛着を持ってくださっている方は大勢いるかと思います。……が、全話をすでに視聴済みの私にしてみると、「なるほど、ここまででもこんなに評価が高いのか」という感覚でして。実はここまでは準備運動、ウォームアップのようなもの。7話以降、どんどん魅力が加速していき、1話ごとに「うわああああああああ」となって、「ぎゃああああああ」となっていき、「うおおおおおおおおお」となります。ここまで楽しんでくれた人は、是非その最も美味しいところを楽しんでもらえればと思います。

引用:https://x.com/mikawaghost/status/1822465889461244380

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